着弾観測所

石川県内灘町

【探索日】2008年5月

〜案内看板より〜
この建物は昭和28年内灘砂丘が米軍の特需砲弾試射場として
使用されていた時、発射された砲弾が目標への的中率と爆発、
不発の確認を行った着弾地観測所である。
通称O・P(オペレーションポスト)と呼ばれ見晴しの良い
丘の上に立てられたものであり、
昭和32年(1957年)1月まで使用されていた。
内灘町


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小高い丘に立つコンクリートの建物。
今回、正体を確認するために近付きます。





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果てしなく車で彷徨いようやく見つけたのがこの看板;





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徒歩240m…されど240m; 荒れ放題の歩道を草木をかき分け前進。
上空は蜂やアブが乱舞し、足元には毛虫が所狭しと密集;






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やっと辿り着きました・・・
案内看板が真新しく見えます。






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長い年月、潮風に晒され風化が進んでいます。






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厳しい冬の時期に暖を取ったであろう煙突が残ってました。






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入り口から中へ入ってみます。






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狭い空間に強烈に差し込む光。






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さらに・・・様々な虫たちの羽音や足音が充満。






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窓からは日本海と砂丘が見渡せます。






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外にあった煙突のもと・・・






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延々と響く虫たちの立ち退きコールに降参。





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澄み渡った五月晴れの空。





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爆風よけの細い窓。





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一通り見学し、また草木をかき分け撤退。
帰宅後調べてみると当時は大変だったようです。


内灘闘争…石川県内灘村(現在の内灘町)で起きた米軍の試射場接収に反対する運動。

1950年(昭和25年)朝鮮戦争勃発。日本の企業はアメリカ軍への砲弾を供給していた。
性能検査をするための試射場が必要となり、長い海岸線をもつ場所が選ばれ
静岡県御前崎と、石川県内灘が候補になり、1953年(昭和28年)最終的に
内灘に決定された。これに対し村議会は反対決議を行い、村を二分した闘争に発展。
政府は石川県選出の参議院議員を説得に当たらせた。接収が焦点となった
参議院選挙では、白熱した選挙戦となり、接収反対を掲げた候補が当選。
闘争はアメリカ軍の撤収で終息した。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

皆月海軍望楼跡

石川県門前町

【探索日】2008年5月

能登半島にある皆月海軍望楼跡。日露戦争前に
創設され、太平洋戦争終戦後は米軍も使用した要所。


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着いたのは夕暮れ時・・・こんな時間にもちろん誰も居ない。
そして、さすが崖の上の突っ先! 風が半端なく強い!!
飛ばされそうになりながらも薄暗い松林を抜け望楼跡に到着。





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レーダー施設跡に建てられた展望台に上ってみます。

〜案内看板より〜
皆月海軍望楼は北緯37度21.6分、東経136度45.7分に位し、海抜162米(メートル)、
展望の広きこと全国望楼中優秀の位置を占むと言う。日清戦争後、来るべき日露の開戦に
備え露国艦隊を睨む日本海の防衛基地として、明治29年12月に創設された。
海上見張、通過船舶との交信・無線通信、気象観測及び軍事諸教育施行等の任に赴き、
日本海大海戦勝利への一助を果たした。
その後、一時的な平和の到来により大正10年軍事施設を撤去、昭和4年気象業務も
輪島測候所に移転し、望楼は廃止された。大平洋戦争開戦時の昭和16年12月8日、
既に戦略上の要衝として、舞鶴鎮守府直轄の鋸崎「皆月海軍特設見張所」が再建構築され、
兵員も配備されていた。又、一時民防空「六番皆月監視哨」も併置されていた。
昭和20年(1945年)8月15日、敗戦を似って終結、日本海軍は終焉し、その任を閉じた。
戦後、アメリカ軍がこの地を接収し、対空レーダー基地として改設軍務駐留したが、
一冬後、輪島に基地を移動転去し無人に帰した。

門前町はこの台地、旧見張台。電探据付基礎及び米軍レーダー設置台跡地点に
「旧海軍望楼跡」と昭和47年4月、記念の石柱を建立し、現在に至っている。





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眼下に広がる日本海。。天気が良ければ中国大陸まで見えそう。





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強い風で息苦しくなったので階段で高台下へ移動。
コンクリートの遺構がちらほら見えます。





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ぐるっと移動すると説明看板がありました。





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兵舎の跡だったようです。





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草に隠れてる遺構。





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唯一建物らしいものはこれだけ・・・とても小さいです。





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茂みの中に防空壕が・・・さすがに掻き分けて入りませんでした。





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発電機跡。しっかり土台は残っているものです。





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看板が倒れていますが砦の井戸だそうです。
この望楼唯一の水補給元だったのでしょうか。





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探したら・・・見えてないし危ないでしょ><
夕闇に追い立てられる様にこの場所を去ります。
さすがの米兵でも一冬しか我慢出来なかったのでしょうね。

緑十字機(一式陸上輸送機)

磐田市

【探索日】2013年9月

磐田市福田の公民館で開かれた展示会「戦争の時代と福田の人々」に、
終戦直後の1945年8月20日、現:磐田市の鮫島海岸に不時着した
一式陸上輸送機(緑十字機)の機体の一部が展示されているので訪れました。

『緑十字機』
昭和20年8月19日、米軍の指示で降伏受理協議のため、
マニラの連合国司令部に派遣された陸軍大本営参謀次長河辺四郎中将を全権に
横山一郎海軍少将、岡崎勝男外務省調査局長など陸・海軍、外務省の責任者17名
からなる代表団を乗せ飛行した2機の飛行機。一式陸上輸送機(1番機)と
一式陸上攻撃機(2番機)の機体を白く塗り、翼に緑の十字が書かれたことから
『緑十字機』と呼ばれました。
代表団は千葉県木更津から沖縄県の伊江島まで緑十字機で、伊江島からは米軍の
飛行機に乗り換えマニラへ向かいました。
緑十字機は翌日の夕方、故障した2番機を残し、マニラから伊江島へ戻った代表団を乗せ、
木更津に向かいますが、燃料切れのため深夜(20日午後11時55分頃)、
磐田市鮫島の遠州灘海岸に不時着しました。
〜展示資料より〜

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磐田市福田公民館での展示会「戦争の時代と福田の人々」
昼頃到着したためか見学者は我々だけでした。

戦地から役場に宛てられた手紙や、靴や水筒など180点が展示されている他、
ラジオ放送された昭和天皇の「終戦の詔書」(玉音放送)のCDも聞けるそうです。



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緑十字機(一式陸上輸送機)の展示

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伊江島で羽を休める緑十字機2番機

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飛行中の緑十字機

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伊江島の緑十字機2番機





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『不時着した緑十字機(降伏軍使機)』
終戦の玉音放送から5日後の昭和20年8月20日の深夜、
翼に緑の十字を印した白い大型飛行機(一式陸上輸送機)が鮫島海岸へ不時着しました。
この飛行機には、日本の命運をかけマニラの連合国司令部と降伏受理協議(終戦協議)を
行なっていた陸・海軍及び外務省の代表団の主要メンバーが乗っていましたが、
全員が奇跡的に大きな怪我もなく不時着することができました。
代表団と搭乗員は地元の人たちに助けられ、手配されたトラックで浜松飛行場へ、
浜松飛行場から飛行機で東京へ戻り、連合国司令部から渡された指示を総理官邸へ
伝えることとなりました。その後、連合国軍進駐、ミズーリ号での降伏文書の調印につながっていきます。
不時着した飛行機は、海岸に放置されましたが、主要な部品は持ち去られ、
残された機体も台風による嵐で海中に沈んでしまいました。
その記憶も忘れられようとしていた平成18年6月に鮫島海岸で尾翼部分が、
平成23年7月に遠州灘で燃料タンクの一部が発見されました。
〜展示資料より〜

『一式陸上攻撃機と陸上輸送機』
一式陸上攻撃機は海軍の陸上攻撃機で、皇紀2601年4月(1941年(昭和16年))に
正式採用されたため、末尾の数字をとって、「一式陸上攻撃機」と命名されました。
後継機「銀河」の配備が遅れたこともあり、終戦まで海軍の主要攻撃機として活躍しました。
このうち先行して生産された30機が改修され、一式陸上輸送機と命名されました。
胴体内に座席を設け人員と貨物の輸送任務に従事しました。
〜展示資料より〜


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こちらが漁船により引き上げられた増設タンク。






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長い年月、海の中に浸かっていたためぼろぼろ。






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希少な一式陸攻の機体の一部。




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操縦室の写真も展示されていました。




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ガラスケースの中にはプラモデルの下に
尾翼の一部も展示されています。




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国の重要な代表団を乗せた飛行機が燃料切れ?
ネットで情報を探してみると・・・
日本の上空で友軍機の追撃を受け回避するうちに
燃料切れとなった。降伏を認めない一部の軍人による
妨害工作が行なわれたのではないか云われています。




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緑十字機の他に空襲時に残されたモノの展示。




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B29爆撃機から投下された焼夷弾と
グラマンの機銃掃射に使われた機銃の薬莢も。
多くの命が失われました。




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孫文関連の展示もされてます。




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地元出身の方が戦死時に身につけていた日章旗。
今も大切に保管されています。

玉の火薬庫跡

岐阜県関ヶ原
【探索日】2008年5月

玉の火薬庫跡
大正三年(1914年)に開設された火薬庫は、
正式には「名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠」といいます。
建設に従事したのは大半の地元玉地区と一部関ヶ原地区の住民でした。
指揮に当たったのは、岐阜68連隊で、後に敦賀19連隊に交代し、
完成後は第9師団第19連隊の管理下となりました。
門柱の一部は営門の名残りで、当時の陸軍が火薬庫に威信をかけて
いたことが偲ばれます。 関ヶ原町
〜案内看板より〜


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道路沿いの雑木林に隠れるように建つ門柱。




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土塁の前に建つ見張り用の立哨台。




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火薬倉庫用土塁
この土塁は火薬倉庫への万一の誘爆に備えて設けられたものです。
敷地内には本洞窟、半洞窟利用のもの以外に、こうした一棟毎に
土塁で囲った倉庫総数28棟が、7ケ所にまとまり、
整然と建ち並んでいたのです。
また用地境界は鉄条網が張り巡らされ、その内側は樹木伐採に
よる防火線が造られるなど厳重さを極めました。 関ヶ原町
〜案内看板より〜




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木の枝が簾のようになった土塁。




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強固に造られているのでほぼ原形を留めています。




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山の反対側にも立哨台があります。
24時間兵士が交代で火薬庫の見張りをしていました。




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火薬庫の1つ目をさっそく見学させていただきます。




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扉の主要部分は壊され中は真っ暗・・・




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倉庫内の気温は寒いくらい・・深くは入れませんでした;




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2つ目へ移動します。




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中は物置きとして使われていたようですね。




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3つ目は扉が閉ざされていました(安堵)




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広場の端にもう一つ立哨台。




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その奥に4つ目の火薬庫です。




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中はストロボも届かない広さでした;




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外との温度差が結構あるので‘ムンっ’とします。




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入口が草に覆われた5つ目の火薬庫・・・




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蜂やアブに追い立てられて中に入ります。




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天井の漆喰が崩れて床に山積み・・・




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火薬の誘爆にも耐えれるよう、当時の建築の推移を集めた設計だと
本には書かれていました。鉄筋が規則正しく張り巡らされてます。




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むせ返るような暑さの外界に戻りたいと思います。




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駐車場に咲く白藤に癒されて探索を終了。


旧陸軍火薬庫跡
大正初期より昭和20年までの30年間、この区域一帯は火薬庫として
使用されていました。周囲6キロ、面積約270ヘクタールあり、
東洋一の規模だったと言われています。
ここに火薬庫が造られたのは、交通の便はよく、小高い丘は
洞窟を築く上で都合がよいなど、立地条件に恵まれていたからです。
 関ヶ原町
〜案内看板より〜

P字型トンネル

岐阜県各務原市
【探索日】2004年6月

ホタルで有名な各務原にP字型をした
地下壕が残されているとの話をいただき
さっそく訪れてみました。
訓練用に掘られた説や指令部用に掘られたと
言われています。


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唯一の手掛かりだった「螢の碑」は
バイパス工事のため移転されていました。
聞き込みをしてやっっっっと見つける事が!
肝心のホタルの池は工事中で最後の仕上げ段階。
見頃は来年以降でしょうか…




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近所のおばあちゃんに地下壕の場所を聞いて
田んぼ道をひたすら歩いて行きます。




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目印の場所で山に入ると、地下壕がポッカリと
口を開けて待っていてくれました。。




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入口に立てられた看板。
危険なので入らないように!




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では、入ってみましょう。。
ひんやりとした空気と怪し気な音が
壕の中からしてきます…




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一歩入ってみました、足元は前日までの雨と
壁からしみ出す地下水でぐちゃぐちゃ。




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さらに進んで行きます。奥からは水音に混じり
行進している様な音が反響して聞こえて来ます。




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なにか外の方から話声がするので振り返ってみました。
残念ながら誰もいません。田植えをしている人達の声かな?




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情報通り右に折れる通路があります。




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これがP字と呼ばれる由縁。
最終的には奥とつながっている…はず;




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右に行ってみます。先が見えないからかなり不安なんですが。。




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左に曲がって…行進の正体はこのケースに
地下水が当っている音でした(安堵)




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何故か奥の写真がない?入口から真直ぐ入って来た
写真が次に来ています(汗)




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天井の様子です。
頑丈そうなのでホッとしました。。




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不思議な事に…懐中電灯もつかなくなり、
耳元で話声が聞こえ出したので帰ります。




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やっと出口に到着しました。




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この地下壕入口の他にあと数カ所、
現存している様なので探す事にします。




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来る時に気が付かなかった、いかにも
‘コンクリートで塞ぎましたよ!’的な壁;




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さらに探して行くと…ありました!
穴付きの岩。この岩で壕の口を塞いであるとか。

今回見付けられなかったもう一つの入口。
ちょっと残念…この場所は、ホタルの観賞地として
シーズンはとても賑わうそうです。
が、地元のお子様達がオイタする所でもあるそうです。
昼間訪れると、自然を満喫できて良い場所ですよ。

化石の地下壕

岐阜県瑞浪市
【探索日】2003年7月
数年前に訪れた時のお話…
まったく霊を信じない同僚と、この中に入ろうとしたら、
異様な空気に二人して入口の前で硬直。。看板を見たら…

〜化石の地下壕〜
この地下壕は、第ニ次世界大戦末期(1944年〜1945年)に、
航空機製造の疎開工場を建設するために掘られたものの一部です。
地下壕の建設に携わったのは、強制連行された朝鮮人と中国人で、
重労働と栄養失調などによる死傷者も多数でました。
…以下略


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某施設の中に展示されている地下壕。
一般公開されていて、照明もあるのですが…




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壕に一歩入ると、ひんやりとした空気と
壁からしみ出す水音が反響しています。




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壁のあちらこちらには、手掘り独特のでこぼこと、
化石がそこかしこに見れます。




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まだまだ先が見えないです。




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天井にみられる化石の一覧です。




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マニアには涎垂ものの化石が沢山…
保護されているので見学だけにして下さい。




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いよいよ行き止まり。普通に寒いです…




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ここで終わりです。振り向いて出口に向かいます。




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やっと出口が見えてきました。ちょっと安心…
今回は夕方3時の突入でほぼ無事でした。
前回、暗くなってから硬直したので5時以降の見学は?
※時間により閉鎖されていると思います。




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さぁ〜出ましょう!




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ひと息付くために駐車場に戻ると、向いの山に同じ様な門構えが。
どうやら別の入口のようです。こちらは閉鎖されています。




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近付いて観察すると、鉄の扉は錆びています。
穴の明いている所からは冷たい空気が(滝汗)
ここは諦めましょう…

古虎渓防空壕

岐阜県多治見市
【探索日】2004年7月

情報協力:「うさぎっ子恐怖館」様
 
噂の古虎渓ハウス周辺にある防空壕です。


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県道の小道を上がると広場に出ました。




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草に覆われていますが、
山肌にポッカリと穴が開いています。




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足場がぬかるんで悪い(汗)注意しながら中へ
入ってすぐ一升瓶が散乱していました。




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分岐しています。左側に進みますが…




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狭い壕内を先へ進むと行き止まりのようです。




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分岐の右側は水が溜っていて進入は断念。
奥からは嫌な冷たい空気が流れて来ています。




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入口付近に戻って来ました。
脚立が立て掛けてあり、上に登れます。




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脚立の足元にも一升瓶が積まれています。




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外へ出ます。夜中の探索は恐怖でした。




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草むらを掻き分けて広場へ。
その時、かすかに動く物体…たぶん蛇?




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広場から県道へ、、無事探索終了…
訪れる際は気を付けましょう。

谷汲線跡

岐阜県根尾川沿い
【探索日】2003年9月

大正15年(1926年)4月、美濃電気軌道の谷汲鉄道が
黒野-谷汲間を開通させた。大戦中の昭和19年3月に
名古屋鉄道に合併。岐阜市内を結ぶ大切な交通手段であった。
1970年代がもっとも利用されていたが、1980年代に入ると
道路が整備され、それにともない利用客も減少した。
平成13年(2001年)9月末で黒野-谷汲間が廃止された。
(私鉄廃線25年参照)



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根尾川を北上した時に見つけた廃線跡。
石灰石掘削場のすぐ脇に駅の跡があると聞いて
訪れてみました。




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ダンプの往来でボロボロになってしまった踏み切り跡。




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草が生い茂る場所に鉄道の名残があります。




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標識だけが寂しそうに取り残されている…




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器具箱も同じように…




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もう一つの器具箱の向こうに
コンクリート製の建造物が見えます。




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北野畑駅のプラットホームです。
駅舎はすでに取り壊されていました。
線内唯一の交換可能駅だったとか。




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ホームの橋に書かれた記号。




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その奥には枕木が積み重ねられています。




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さらに線路跡に沿うように積まれています。




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真近で観察すると枕木に丸い輪が打ち込まれています。
確か木が割れにくくするためだったかと…




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もうポイントの切替も行なわれません。




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北野畑駅跡から川沿いにカーブした場所に
落石防止用の柵がありました。




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拡大してみると、タイヤを利用した柵です。




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道沿いに線路跡が続いていきます。
辺りは根尾川と田園風景が広がっています。




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標識がここにも…




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標識に近付くと草に覆われた線路が残されていました。




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小川に掛かる橋梁跡。




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こちらはレールが取り外されていますが、
枕木がまだ当時のまま。




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最後に赤石駅跡を見学して終了しました。
発着線駅の谷汲駅には
当時の電車が保存されているそうです。
次回はそちらも訪れてみたいと思います。

13・14号トンネル

岐阜県中央本線旧線(高蔵寺〜多治見)
【探索日】2002年3月

同行者:じゃんたいら様

難工事の為、建設中事故死された方が多かった場所だそうです。
一昔前、世間を騒がせた「口裂け女」その噂の発祥地が
このトンネルと言われています。病院から逃げ出した患者が
トンネルに住み、通りがかりの子供に話し掛けたのが最初とか…


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14号トンネルの入口。レンガ造りが時代を物語っています。
…入口手前に洗濯物。住んでいる方がいらっしゃるようです。



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ちょうど留守でしたので勝手に先へ進みます。
道は半分整地されていて、歩きやすいです。



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トンネル上部。ところどころレンガが剥がれ落ちています。
黒っぽい所は蒸気機関車の煙りの跡です。



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やっと出口。途中でカーブしているため、
明かりが入らず中は真っ暗でした。



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14号トンネル出口を撮影。いい造りをしてます。
距離を計っていなかったのですが、多分1km弱かと…



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何故かアスファルトで鋪装された線路跡。
遊歩道になっているのでしょうか?



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15分〜20分位歩いて行くと、13号トンネルの入口が見えてきます。



1314tonneru_08.jpg
こちらの中も、半分整地されていて歩きやすい…
しかし石がゴロゴロしていて、油断するとコケます。
壁面から流れ落ちる水の音がトンネル内に反響。



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暗闇に何かが見えてきました。



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行き止まり…ブロックで完全に封鎖されています。



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小さな入口の中には階段があり上にはマンホール。
“切り込み隊長”じゃんたいら様に昇っていただきましたが、
残念ながらマンホールは動かなかったそうです。



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帰りに満開の桜を撮ってみました。
隧道とは違った雰囲気を持つ廃線の旅。
次回は1号〜12号を旅してみたいものです♪

福江監的哨跡

愛知県田原市
【探索日】2008年12月

この福江監的哨跡は地元の方にも知られていない存在でした。
資料館で聞き込み・・・遠方の学芸員の方まで呼んでいただき大騒ぎに発展;
何気ない学芸員さんの一言「すぐそこの山道に昔からなんか建ってるけど・・・」
探していた監的哨がまさしくそれでした!


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山道を探すと雑木林の中にレンガ造りの遺構を発見。




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朝日に照らされた赤レンガは年月が経っても美しい。




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中へ入ってみます。 虫達の羽音が響いています。




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小さな建物内・・・レンガ以外は残されていません。




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カップルの遊び場なのか相合い傘が沢山掘られています;




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階段を上って屋上・・・かつては上空や海を監視した場所も
草木に覆われて数m先も見えない状態です。




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当時、何人の兵隊さんが詰めていたのでしょうか。




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知る人はもぅ居ないようです。




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陸と刻まれた境界標。




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大きなコンクリート製のタンク・・・これも関連施設?




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最後にレンガに取り付いてたくましく伸びる蔦を。




Fukue_12.jpg
貴重な赤レンガ造りの遺構を見学できました。

調べていただいた皆様、お忙しい所本当にありがとうございました。
貴重な当時の試射場でのお話もお聞かせいただき感謝でございますm(__)m
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プロフィール

屋敷サカヱ

Author:屋敷サカヱ
「NeoNATS」へようこそ!
‘過去’に探索・サイト公開した物件を公開してます。
5月から月2回の不定期更新になります。
よろしくお願いします(*´∇`)ノ

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