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鹿島海軍航空隊司令部庁舎跡【後編】

茨城県

【探索日】2007年6月


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水上機の操縦訓練を行い、内地防衛・対潜哨戒などの
搭乗員教育がなされた鹿島海軍航空隊の司令部庁舎だった建物。
戦後は病院施設として使われていたそうです。



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せっかく残された遺跡なのに至る場所糞だらけ。






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今までとは造りが違う部屋に着きました。





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長官室があったと思われる場所です。





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重厚な扉は鳥たちの止まり木となってました。





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本棚は巣箱。





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ただ漠然と部屋を廻るだけです・・・





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籠に入った鳥のように外の景色をぼーと眺める。





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小さな階段で上の階へ向かいます。





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緑の洪水が押し寄せてくる・・・





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いつの間にか草が生える屋上に到着しました。





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遠くに見えるのは炊事楝。





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足場がめちゃくちゃ悪そう。





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見晴しと風通しがよい3階の部屋。





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こんな環境だったら仕事もはかどるかな。





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窓から外を見ると基礎だけになった建物跡。





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手を付いた柱に貼ってあったステッカー。





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急な階段を戻り探索を終わります。





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当時の様子を垣間見れなく残念な訪問でした。
せめてこれ以上荒れないことを願います。

ご協力頂きました皆さま誠にありがとうございました。
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鹿島海軍航空隊司令部庁舎跡【前編】

茨城県

【探索日】2007年6月

水上機の操縦訓練を行い、内地防衛・対潜哨戒などの
搭乗員教育がなされた鹿島海軍航空隊の司令部庁舎だった建物。
戦後は病院施設として使われていたそうです。





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森の中に頭の部分だけを出す司令部庁舎跡。
貴重な歴史の生き証人なだけに辿り着くのが一苦労;





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毒虫やスズメ蜂に囲まれながらも到着。
1階部分は目貼り板のため真っ暗な世界。
フラッシュ使用で暗闇に浮かび上がる立派な玄関。





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玄関正面にはこちらも立派な階段。





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数多くある部屋も光が遮られ暗闇。
辛うじて写っていたのが洗面台・・・





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大階段で2階へ上がります。





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踊り場の窓も緑に覆われようとしてます。





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2階の廊下・・・なんだか建物内が騒がしい。





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趣きある木造の窓枠。
足元や電灯の上にこん盛りしてるのは鳥の糞;





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どの部屋も漏れなく鳥の糞だらけ・・・臭うし





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破れている場所から出入りしてます。





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もう鳥小屋に入り込んだみたい・・・





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倉庫としても使われていないので部屋の中は空っぽ。





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緑のステンドグラス。





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病院施設に転用されたからなのか流し台が目に付きます。





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目貼り板が残った真っ暗な部屋にも。





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急造っぽい男女便所がありました。






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男子便所内部です。





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女子便所内部です。


【後編へ続く】

鹿島海軍航空隊跡

茨城県

【探索日】2007年7月

霞ヶ浦に面する波打ち際に海軍航空隊の遺構があります。





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遺構の他にも建物が草むらに覆われて残されていました。





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元鹿島海軍航空隊の跡の石碑。
主に水上機の操縦訓練を行い、内地防衛・
対潜哨戒などの搭乗員教育がなされました。





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堤防付近にある大きな遺構。





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航空隊の倉庫。今も民間の方が使用されています。





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草をかき分けボイラー楝だった建物へ向かいます。





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かなりの錆付き具合。トタンが風になびき大きな音…





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建物の中には2基のボイラーが鎮座。





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重厚な昭和十四年製。





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奥行きの長いボイラーでした。





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他にも無骨な機械達が…





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上を見上げると煙突が屋根の隙間から覗いていました。





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とても小さな建物の中に彼は佇んでいます。





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白い彼は戦後に設置されたようです。





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ボイラーの後ろ見てみると…





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緑がなだれ込んでいました。





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見事に積まれたレンガ。修復の痕もみられます。





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光が差し込む場所に荷物が押し込まれてます。





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・・・これは;





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白い彼の後ろ姿の記念写真。





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机の上はそのままで土が積もった感じ。





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空間を堪能してお別れする事にします。





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隣の発電施設の小屋へは草が凄く断念しました。

幸福駅

北海道帯広市幸福町

【探索日】2003年5月

〜幸福駅案内板より〜
愛の国から幸福へ
幸福駅は、昭和4年の広尾線開通から27年後の昭和31年に設置されました。
広尾線の開通は、十勝南部開拓を急速に進め、多大な功績を残すと共に、
テレビで全国に紹介されてからは「幸福行き」の切符に人気が出始め、
「愛国・幸福ブーム」を呼ぶなど数々の思い出を残してきました。
しかし、昭和62年、国鉄再建策の中で広尾線が廃止となり、
幸福駅の歴史も閉じられましたが、夢とロマンに溢れるこの地を後世に
伝えていく為、この交通公園を造成したものであります。


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花畑牧場より車で20分。
到着してみるとカップルだらけでした。
駅舎には、名刺やら絵葉書、写真が貼り付けてあります。





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駅舎正面。幸福の鐘でしょうか。
結婚式がちょうど終わったところ。





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外には朱色の車輛が2輛置かれています。
形式はキハ22だそうです。





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当時使用されていたホームの看板。





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車輛の中を見学できるので、早速入ってみました。
今にも乗客の話声が聞こえてきそうな車内…
なんだか懐かしい感じがしてきます。





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売店にて本日の日付けの切符購入。
幸福な気分になりました!

湖に消える道・・・

レポ提供:山無し謙様

神奈川県宮ヶ瀬湖

神奈川県にある宮ヶ瀬湖は、湖に架かる
虹の大橋がスポットとして有名です。
この橋は、湖ができる前に完成しましたが、
完成後から自殺が多く発生する場所だそうです。






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最近では、この虹の大橋の他に、やまびこ大橋や
宮ヶ瀬湖周遊道路にあるトンネルもスポットとの
噂があるようです。宮ヶ瀬湖は、今まで昼夜問わず
訪れた場所ですが、恐怖体験をしたことがありません。
今回も、宮ヶ瀬湖に向かいました。






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スポットとして有名な虹の大橋です。
この橋の両端がカーブになっていて、橋の部分は直線となっています。






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この写真、右下を見てみると、花が飾ってあります。
ここで「あった」のでしょうか。






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虹の大橋を渡り、宮ヶ瀬湖の周囲を進みます。






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車を進め、途中あるものを見つけました。
人が利用していなさそうな、不自然な方向に下っていく道です。






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この道の先を見てみると、湖の方に続いているようです。
この場所は、立ち入り禁止区域になっています。
車を降りて、この道を歩いてみることにしました。
道はやはり、湖に向かって緩やかなカーブを描いています。
この先はどうなっているんでしょうか。






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進んでいくと、おおっ道が・・・!み、湖の中に入っていっています。






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さらに進んでいくと、道と湖の湖面の境界地点まで来ました。






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道の中央線のオレンジのラインが、湖の水の中に消えていっています。
この道は、湖に沈んだ村と現在の村をつないでいたようです。






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この道の先、水の中にはどんなものがあるのでしょう。
湖に沈んだ村の施設などがあるんでしょうか。
過去と未来をつなぐ道、未知の世界へ続く道(笑)・・・。






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周囲を見渡すと、草などがあまり生えていない茶色い部分があります。
普段は、この撮影場所も水の中なのでしょう。
たまたまこの日は、水位が下がっていたのでしょう。
周囲を安全と思われる範囲で散策してみたいと思います。






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この写真を見てみると、他の湖同様、湖畔という感じがします。
ただここは、自然にできた湖ではなく、
人工的に作られた湖ということを除いては・・・。






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この場所から、湖面を見てみます。






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普段、水中の茶色の場所は、石などがゴロゴロしています。





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そろそろ戻りたいと思います。
道はこの様に、坂になっています。
道に速度表示のようなものが書かれていますね。
アスファルトも、長い間手入れをしないでおくと、
ガダガタにひび割れてしまうんですね。





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この道は、ガードレールがつけられています。
ガードレールは、場所からして新しく作られたものではなく、
完成以前からあったものではないかと思います。
なぜなら、現在、人は、この場所を通らないはずですから・・・。






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この場所は、立入禁止区域になっています。
宮ヶ瀬ダムの為の人造湖であり、急激な水位の変化が起こる可能性があります。
この場所には、水位の変化を知らせるものは何もありません。
立ち入ると、事故等、何らかの問題が発生する可能性が非常に高いです。
もし、これをご覧になられた方、絶対に行かないでくださいね。
ホント危ないですから、絶対にやめてくださいね!

検見川無線送信所跡

千葉県花見川区検見川
【探索日】2004年7月

ご案内:『噂の現場』sudoh様

日本初の標準短波通信を行なった検見川無線送信所跡。
大正天皇が崩御され昭和に年号が変わった1926年建設。
大戦中は、大東亜圏の通信を行なった重要拠点になる。
終戦後は電電公社(現NTT)に引き継がれた。


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場所が判らず、コンビニで道を聞いて辿り着きました。
広大な敷地にポツンと建物が建っています。
まずは門から見て行きます。締まっていますが…





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小高い山になっている場所から建物の上部だけ見えます。





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門の裏側…草に覆われています。





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未舗装の道を歩いて行くと建物の玄関に到着。
窓は全て鉄板で塞がれています。





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玄関から反時計周りに歩いてみましょう!





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配線も切れているところから、
今は使われていないのでしょう。





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草に隠れた塔がありますが後で見ることにします。





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建物裏側の様子…ある意味不気味です。





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侵入出来そうな所は全て鉄板防御。





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こちらも鉄板さらに補強付き。





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玄関まで戻って来ました。
コンクリートが若干剥がれ落ちてきています。





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玄関の階段を登ってみます。





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階段には滑り止めの加工がされていたのでしょう。





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電灯の跡なのかな?年代を感じさせてくれます。





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玄関も厳重に鉄板封印。
仕方ないので反対の階段から下ります。





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倉庫の出入り口。





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全景を狙ったのですが入りきりませんでした。
建物は全体的に角が丸い造りです。





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先程の草に覆われた塔。調べてみると
地下水観測施設だったそうです。





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道を挟んだ反対側には小さな倉庫(?)が
蔦に絡まれています。。





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最後に記念碑を撮影して終了です。
すぐ近くまで宅地造成の工事が迫っている
この場所、、このまま残る事はあるのでしょうか?

土浦武器学校展示場(後編)

レポ提供:ヴラド魔王様

茨城県土浦市陸上自衛隊土浦駐屯地内

今回は茨城県土浦にあります陸上自衛隊土浦駐屯地内の
「土浦武器学校展示場」に行きました。
世界で1台しかない『三式中戦車』に是非とも会いたいからです。


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これが世界で1台しかない『三式中戦車』です。
日本の戦車と言えば九七式中戦車(チハ)チハタンや一式中戦車(チヘ)が有名ですね。
三式中戦車は本土決戦用として急遽開発された戦車です。




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『三式中戦車』
全長5.73m 全幅2.33m 最大装甲50mm(ドイツ3号J型並みの装甲)
重量18.8t 最大速度38.8km/h 乗員5名 航続距離210km
【武装】75mm砲×1 7.7mm機銃×1




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昭和18年(1943年)から太平洋での戦場に登場したのがM4シャーマン戦車でした。
戦車開発を怠っていた陸軍は、既にある一式戦車の車体を流用し、90式野砲を改造した
三式七糎半戦車砲2型を搭載しました。昭和19年9月に試作車完成。12月には量産に移行しました。
同年の生産数は55両。翌年20年には11両が完成しました。終戦までに110数両が生産されましたが、
一度も砲火を噴く事無く生涯を終えました・・・・・。




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90式野砲の威力は、初速680n/s 貫通力は100mで90mm 1000mで65mmでした。
500m以内なら、シャーマン戦車の装甲を撃ち抜く事が出来たのでした・・・・。





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横からみた三式中戦車チヌです。やはり大きさが違いますね!
すごい・・おっきいです!




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因みに三式中戦車の横の装甲はなんと20mmしかありません・・・・




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砲塔が大型したぶんエンジンが大きくなってますね。
しかし・・・これで本土決戦をする考えって・・・のはねぇ・・・。




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平たく言うと三式中戦車チヌはドイツ戦車で謂うと・・・・4号F2型でしょうかねぇ。
次の四式中戦車(長75mm砲・装甲75mm・30t)チトは5号パンダー戦車ですかねぇ。
最後の五式中(重)戦車(88mm砲・装甲75mm・37t)チリは6号ティーガー戦車1型でしょうか。
幻の超重戦車120t超重戦車オイ(105mm砲・装甲200mm・120t・なんと車体だけは完成してました!
技術者は素晴らしい!)はマウス戦車でしょうかねぇ。。。。





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現在、三式中戦車チヌは屋根付きの車庫に展示されてます!
是非とも鄭重な解説付きの施設内で展示してほしいと強く思いました!




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三式中戦車チヌの車輪です沢山ありますねー。
維持管理が難しいのが分かります・・・・・




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チヌの砲塔に接近しました。かなり大きいのが分かりますね。




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乗務員が乗る入口です。手のばして開けたいのはやまやまですが、自重しました。




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三式中戦車チヌの隣には本当は八九式中戦車があるはずでした。
『八九式中戦車』
全長5.75m 全幅2.18m 全高2.56m 最大装甲15mm
最大速度20km/h 乗員5名 移動距離140km
【武装】57mm砲×16.5機銃×2
昭和4年(1929年)に初めて国産戦車して登場しました。
イギリスが開発したヴィッカースMK.Cのコピーとも揶揄されました。
別名(鉄牛)とも言われてました・・・遅いのね・・。主に大陸(中国戦線)で活躍しました。
現在は自衛隊のどこかで完全修理中だそうです。いつの日かの基地公開イベントで動くそうです!
期待して待ちましょう!!!三式中戦車の完全修理も願いつつ!




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三式中戦車の隣にはなぜかロシアの有名な対戦車砲が展示されてました!
日本で見られるのもここだけかもしれません!




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これは『長45mm対戦車砲』です。
45mm口径 重量0.57t 貫通力95mで300mm

射程500mで42mmの装甲が貫通する程の威力がありました。
バロバッサ(赤髭)作戦で侵攻してきたナチスドイツ軍の戦車を
全て撃ち抜く事が出来たのでした。重量も軽く、ベルリンの戦いまで
ロシア軍と共に進みました。後期型ではなんと300mで140mmも貫通しました。




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後方です。さすがに初めてみる対戦車砲には感動しました!




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さてぇ隣にありますのは・・有名な対戦車砲である『76mm砲』です。
「別名ラッチェ・バム」砲弾が速く、発射音より命中音のほうが先に聞こえるという
厄介な名前をドイツからもらった兵器です。
あのT34/76型戦車と同じ口径の砲です。




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『76.2mm榴弾砲M1942』
口径76.2mm 重量1.57t 最大射程13.3m
貫通力1000mで61mm
大砲としてでも使用できるので万能砲でした。





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ここから迫って来るドイツ戦車を狙ったのでしょうね
…モスクワ…スターリングラード…クルスク…ベルリンとかで…(<●>ω<●>)/
榴弾砲であるぶん大きさが分かりますね!!




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ラッツェバムの後方です。リアルの本物に触れられて感動しました!!!(>ω<)/




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以上、土浦駐屯地訪問レポートを終了します。^−^ノ

土浦武器学校展示場(前編)

レポ提供:ヴラド魔王様

茨城県土浦市陸上自衛隊土浦駐屯地内

今回は茨城県土浦にあります陸上自衛隊土浦駐屯地内の
「土浦武器学校展示場」に行きました。
世界で1台しかない『三式中戦車』に是非とも会いたいからです。


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列車・バスに揺られる事約90分。陸上自衛隊土浦駐屯地に到着です。
歴史は古く、駐屯地は大正10年に海軍時航空術部水上班とい名称で
海軍水上機の発着場として開設されました。




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駐屯地に入るにはまず入口で申請。用紙に名前、住所等を書き込みます。
記入事項を全て書き終えますと、見学コースが印刷された地図とバッチが渡されます。




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バッチは必ず見える所に着けてから入るようお願いします。
もし、つけてないと警備する自衛官の方に止められます。(不審者として;)




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バッチをつけて中に入ります。広大な駐屯地。前方には霞ヶ浦が見えす。
まずは屋外展示兵器の見学。戦後米軍から支給された兵器や陸上自衛隊で
現役を終えた戦車、現在も活動中の戦闘車両
(おそらく外観のみ再現の張りぼてと思われます)が見学出来ます。




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これは『203mm(8in)榴弾砲M2』重量は13.47t、最大射程16.97km
1940年代に制式化された重砲です。ロングトムより射程は劣りますが破壊力は大きく、
攻撃や防護の最重要拠点に投入されました。有名な戦いでは1944年の欧州戦線の
アルデンヌ攻勢作戦(バルジの戦い)では、包囲されたフランスのバストーニュ防衛線で
迫るドイツ軍を撃退しました。陸上自衛隊に供与され1995年まで使用されてました。




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軽戦車の決定版『チャーフィー戦車』1943年3月から開発が始まりました。
名前はチャーフィーの由来は人物で、アメリカ軍戦車部隊の創設に功績があった
アドナ・R・チャーフィー将軍に因んだニックネームです。生産した企業は
あのGM(ゼネラルモーターズ)一員であるキャデラック社でした。
生産は1944年3月から始まり、実際に戦場デビューしたのはあのバルジの戦いでした。
参加数は約20両。初陣の戦果は無し。それどころか、初めて見た米兵から
「ドイツの新型戦車パンダー戦車だ!」と勘違いされ誤射される事件が起きる程でした。
そとため、後に「仔豹」とあだ名されました・・・・。
チャーフィー戦車は1945年8月に生産中止されるまでに4731両生産されました。
その後は朝鮮戦争に参加するものの・・・あのT34/85の攻撃には耐えられず
早々に戦場から消えて行きました・・・しかし1952年2月に在庫で残っていた
チャーフィー戦車400両が陸上自衛隊に供与されました。もともと日本国土侵攻作戦用に
開発された軽戦車でしたから、自衛隊員の中では非常に評価された戦車でした。^−^




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有名過ぎる『M4シャーマン戦車』連合軍の一員であるイギリス軍からも高く評価され
車体が流用されシャーマンファイヤフライなりましたが・・・余にも強い対戦車砲だったので
逆に米軍が逆にイギリス軍にファイヤフライの供与を求めた話もあるほどでした。
戦後は、特に中東でシャーマン戦車は活躍しました。そうイスラエルです。
祖国独立のために掻き集め集められた戦車にシャーマン戦車がありました。
車体が特に重宝され、上部の武装は他の国のを搭載しました(←よくかみ合ったものだな・・・・)
下部はシャーマン、上部はフランス製の長75mm砲を搭載したM50。
105mm砲搭載した(←勿論車体はシャーマン)M51(アイシャーマン)まで生産しました。
アラブ軍の主力でしたT62系戦車をも撃破するほどでした。
極めて拡張性のある戦車として世界的に評価された戦車でした。




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シャーマン戦車の隣にあるのは『M36駆逐戦車ジャクソン』
対戦車自走砲のカテゴリーに入る車両です。




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『M36駆逐戦車ジャクソン』
全長7.47m 全幅3.05m 全高3.19m 最大装甲76mm
重量29.03t 最大速度41.8km/h 航続距離249km 乗員5名
【武装】90mm砲×1 12.7機銃×1
欧州戦線でドイツの新型戦車(パンダー戦車)や、
重戦車(タイガー戦車1型2型)の登場により
撃破が難しくなってきた1944年6月。強力な90mm砲を搭載した
『M36』が登場しました。90mm砲は
1000m先の垂直装甲を貫通出来るために、タイガー戦車や
パンダー戦車を600mで撃破出来ました。
生産台数は2300両以上。戦後の朝鮮戦争では、重戦車の
「M26パーシング戦車」と一緒に北朝鮮軍と砲火を交えてます。




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戦後米軍から供与された車両群の次に陸上自衛隊の戦車が展示されています。




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『61式戦車』
(車体とエンジンは三菱重工製・高速90mm砲は日本製鋼所製)
全長8.19m 車体幅6.3m 全幅2.95m 全高3.16m 重量35t
最大装甲(推定110mm)
【武装】52口径90mmライフル砲×1 12.7機銃×1 7.62機銃×1
最高速度45km/h 乗員4名 航続距離200km

昭和36年(1961年)に登場した戦後初の国産戦車。デビュー当時はM47パットンのコピーと
揶揄されましたが、戦前の九七式中戦車を思わせるラインが残っています。1975年の退役までに
生産された台数は560両でした。現在はもぅ国内には存在してません。すべて退役しました。
ここにあるのは貴重な車両です。




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『74式戦車』
全長9.41m 車体幅6.70m 全幅3.18m 全高2.25m 最高速度53km/h
乗員4名 航続距離300km 最大装甲(非公開) 重量38t
【武装】51口径105mmライフル砲×1 12.7機銃×1 7.62機銃×1

61式戦車の隣にあるのは『74式戦車』です。別名「ナナヨシ」と謂われている戦車ですね。
今、日本国土を守る戦車の大半がこの74式戦車です。新型の90式戦車や新新型TK-Xは
まだまだ台数が少ない(←凄い価格だからねぇ。)ですからこの74式戦車が日本の主力戦車です。




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ナナヨシの隣には・・・そうあの戦車です。新型の『90式戦車』
外見はあのWW2の有名戦車ティーガー1型を彷彿とさせるスタイルをしてますね!




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『90式戦車』
全長9.80m 全幅3.40m 全高2.30m 登坂能力33.8°
最高速度70km/h 乗員3名 最大装甲(非公開機密) 重量50t
【武装】44口径120mm砲×1 12.7機銃×1 7.62機銃×1
航続距離350km
現在陸上自衛隊で最強の戦車です。世界の大国(米露英仏伊独中)が保有する
戦車と堂々と対峙できる戦車です。




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屋外に展示されてました車両全て見まして次は庭園の方へ。雄翔園と雄翔館があります。
ここには戦中、特攻出撃した陸海軍のパイロットの方を慰霊する場所になってました。




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ここが雄翔園です。奥には2体石像があります。
この地より出撃した方の思いを考えながら手を合せました。
(ー人ー)




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雄翔園の手前には『山本五十六元帥』の銅像がありました。
昭和18年(1943年)4月14日。ソロモン諸島(ガダルカナル島攻防戦)の悪化に伴い、
山本長官直々にラバウルに到着。一式陸攻と複数のゼロ戦護衛で最前線基地を目指してましたが
情報漏れ(←故意に対立する陸軍が流した節もある。)により待ち伏せ攻撃を受け戦死なされました。
遺体は「戦艦武蔵」でトラック諸島から運ばれ、本土で盛大な国葬が行われました。後に元帥に昇格。
昭和18年から20年までは銅像は設置されていましたが、終戦直前には米軍の破壊を恐れ、
銅像は2つに折られました。そして地中に埋められました。上部は昭和23年発見されました。
今は呉の江古田の海上自衛隊基地に保管されてます。下部はなんと平成14年6月10日に
雄翔園の常在戦場碑の付近で発見されました。

後方の雄翔館には、特攻で散った陸海軍のパイロットの遺書や遺品が展示されています。
撮影は厳禁です。しっかり見て行きましょう!

雄翔館の裏手にはお目当ての世界で1台しかない三式中戦車を見に行きます!



後編へ続く

【秋水】燃料庫跡

千葉県柏市
【探索日】2004年7月18日

ご案内:『噂の現場』sudoh様


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ドイツの世界初のロケット戦闘機
「メッサーシュミットMe163 コメート」
その技術提供を受けて開発された局地戦闘機
「秋水」のロケット燃料庫跡です。






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少ない情報から住宅地の中を走り回って頂き
辿り着いた交番の裏手…ナマコのような
異様なコンクリート製の物体が横たわっています。




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分厚いコンクリートで、とても危険だった
ロケット燃料を貯蔵していました。




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壊れた換気筒痕から中の様子を覗いてみます。
ごみが溜まっています。。




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住宅地に横たわる燃料庫…




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草にも覆われています。




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場所を移動します…住宅地を走っていくと
草木に覆われた建造物が!燃料庫の開口部、
タンク車がバックで入れる造りだそうです。




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こさらに上に移動すると…やっと見つけました。
畑の中に突き出した6つの換気筒。
燃料は取扱いがとても危険なのでこのような
換気筒が必要だったようです。




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農作業していたご夫妻の許可を得て
筒の中を覗いてみます…土が堆積。




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名残り惜しみつつこの地を後にしました。
聞いた話では、この下の貯蔵庫には許可を貰えば
見学が出来るとか。中はまるでプラットホーム
のような造りになっているそうです。

茂原市掩体壕

千葉県茂原市
【探索日】2004年7月

ご案内:『噂の現場』sudoh様

航空機を滑走路から誘導路を走らせてきて
壕に納め敵機からの攻撃に備えた壕です。
茂原市内には今も多くの掩体壕が残されています。


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戦争遺跡の資料から茂原市内には数個の掩体壕が
残されているとあったので、立寄って頂くことにしました。
市内を走り回り諦めかけた頃、畑の中に掩体壕を見つけました。




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扉が付けられている所から倉庫として使われているのでしょう。




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畑の畔を慎重に歩いて掩体壕へ近付きます。
大きさからすると戦闘機用のモノと思われます。




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中を拝見…案の定物置きでした。




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分厚いコンクリート製なので取り壊されずに
今も残っていたのでしょうね…




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他の掩体壕を探して、さらに走ると
先程とは大きさが違う壕を発見しました。




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こちらは爆撃機用と思われ、かなりの大きさです。




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案内看板がありました。

掩体壕(えんたいごう)
昭和十六年(1941年)太平洋戦争が始まる直前の
9月に木崎、谷本、町保、新小、本小内の約150戸と
東郷小学校及び寺社等が強制移転を命じられ、
茂原海軍航空基地(戦略上は海軍二五二航空隊)の
建設が始まった。基地本部跡はいまの萩原小学校、
兵舎跡は茂原中学校であり、三井東圧化学(株)
東側の約1,000m道路は当時の滑走路跡で、
基地の東端はいま東郷保育所の前の通称海軍道路
と呼ばれている辺りである。
この掩体壕は航空機を滑走路から誘導路を走らせてきて
壕に納め、敵機からの攻撃に備えた壕である。
二十数基築造された中では最大の規模で総面積三六五平方メートル
壕の中の面積二八六平方メートル、高さは最大が六m七十cmある。
戦時中で基地造成の人手が不足していたため、当時の
長生中学校や茂原農学校の生徒、周辺の人達等動員して急いで造った。
築造方法は、土砂を壕の形に盛って転圧して筵や
板を並べ、その上に金網や鉄筋を張ってセメントを流した。
その厚さは30〜50cmと均等ではないようである。
また計算通りのセメントが間に合わず後から付け足したのも
観察できる。50余年経った今日、茂原海軍航空基地を
語る数少ない遺跡である。
平成七年八月十五日 茂原市教育委員会




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他にも当時の様子を再現した模型の写真が置かれています。




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中を見てみる事にします。危険に付き立入禁止です;




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厚さは先程のモノと変わらないのですが規模が大きい。




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表面のアップ、砂利が浮き出しています。
当時セメント不足で、砂利の割り合いが多いみたいです。




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一部が剥がれ落ちていて鉄筋がむき出しになっていました。




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中から外を撮影…立入禁止です;




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向いの広場にも先程と同じ戦闘機用の掩体壕がありました。




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こちらは少し厚みがないような…




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中の様子です…ゴミが捨てられていました。




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鉄材も置かれています。




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後方よりの風景。
他にまだあるそうですが、時間の関係で
3つ見つけたのみで終了。
戦争という過去の負の遺産として、
残しておいて頂きたいものです。
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プロフィール

屋敷サカヱ

Author:屋敷サカヱ
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5月から月2回の不定期更新になります。
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