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広島平和記念公園

広島県

【探索日】2008年8月

1949年(昭和24年)8月6日の「広島平和記念公園都市建設法」の制定にともない、
この区画を平和記念施設として整備し、1954年(昭和29年)4月1日に完成しました。


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「動員学徒慰霊塔」
戦時中、労働力の不足を補うために立法された国家総動員法により
従事させられた学生達。軍事工場や建物疎開作業などで労働に従事して
被爆した6,000人以上の学生達を慰霊する塔です。塔の周りのレリーフ
には学生達が従事していた仕事の様子が彫られています。





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5層になった高さ12mの有田焼の陶板の中心には平和の女神像。
八羽のハトがとまり、中心柱には慰霊の灯明がついています。





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「元安橋の親柱」
被爆したのは1926年(大正15年)に掛けられた橋。原爆には耐えた橋桁は、
衝撃により親柱の笠石が左右にズレました。その状況から爆心地は元安橋の
延長線上であったと推定されました。

この橋の先祖は、毛利輝元が広島城を築城した時に架けた橋で、
輝元の祖父毛利元就の子の元康(もとやす)が架け渡したことから
その名が付けられたと伝えられているそうです。





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「原爆犠牲ヒロシマの碑」
犠牲者を偲ぶブロンズ像。花崗岩の台座には熱線により泡立ち火膨れした原爆瓦。
全国からの募金により建てられた平和への決意を固めるための記念碑です。





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「広島市立高女原爆慰霊碑」
平和大橋を渡ると折鶴と、モンペ姿の女学生のレリーフの慰霊碑がありました。
広島市立高等女学校(広島市立高女)は建物疎開作業に従事していた生徒541人、
職員10人の全員が亡くなり、他の動員先の生徒・職員も合わ676人が被爆死しました。
広島市立高女は市内の学校で最も多くの犠牲者を出しています。





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「平和の門」
平和大通りにあるフランスの芸術家が制作・寄贈しました。
平和記念資料館の柱と平行に立ち並んでいる鉄骨の枠組みは、
強化ガラスで覆われていて、門と足元の敷石に18種類の文字と
49の言語で「平和」の文字が刻まれているそうです。





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「広島平和記念資料館」
中央が本館、左に広島国際会議場、右に広島平和記念資料館東館。





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「嵐の中の母子像」
広島平和記念資料館の前に建立された「嵐の中の母子像」。
右手で乳飲み子を抱え、左手で幼児を背負おうとしながら、前かがみ姿勢で
生き抜こうとする母の姿を表しています。
核兵器廃絶への限りない努力を呼びかけるために建てられた像です。

広島平和記念資料館の中を拝見しました。被爆した実物が
悲惨な状況を何年経っても訴え続けています。





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「被爆したアオギリ」
爆心地から約1.3km離れた広島逓信局の庁舎の中庭で被爆したアオギリ。
熱線と爆風をまともに受け、枝葉はすべてなくなり、幹は爆心側の半分が焼けました。
枯れ木同然だったこの木は、翌年の春になり芽吹き、被爆と敗戦の混乱の中で
人々に生きる勇気を与えました。1973年(昭和48年)5月、この地へ移植されました。





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「被爆アオギリ二世」
移植され被爆アオギリは毎年種をつけ、これらの種は国内外へ
贈られ多くの二世が各地で元気に育っているそうです。





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「原爆死没者慰霊碑」
広島平和都市記念碑1952年(昭和27年)8月6日に建立されました。
碑文には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文字。
中央の石室には、国内外を問わず原爆に被爆し亡くなられた方の、
名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。





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「平和の灯」
1964年(昭和39年)8月1日点火された平和の灯は「核兵器が地球上から
姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴。 台座は、手首を
合わせ手のひらを大空にひろげた形を表現しているそうです。





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「平和の泉」
ライオンの口から水が滴っています。死の間際、水を求めた原爆犠牲者の思いを
いつまでも伝え続け訪れた人の渇きを癒し、平和の尊さを訴えるために建立されました。





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「原爆の子の像」
明るい未来と希望を象徴する少年少女の像が左右に立ち、三脚のドーム型の台座の頂上には
金色の折鶴を捧げ持つ、平和な未来への夢を託して立つ少女のブロンズ像。碑文には
「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれています。

原爆で亡くなったすべての子どもたちのための慰霊碑。建立のきっかけとなったのは、
2歳の時に被爆した佐々木禎子さんの死。10年後小学校6年生の時に突然白血病と診断され、
8か月間の闘病生活の後、1955年(昭和30年)10月25日に短い生涯を終えました。
佐々木禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで
1,300羽以上の鶴を折り続けました。病気を乗りこえ、懸命に生きようとした話は、
ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれています。





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「旧大正屋呉服店・旧燃料会館」(現レストハウス)
1943年(昭和18年)12月、繊維統制令により閉鎖され呉服店。
被爆当時、広島県燃料配給統制組合が建物を使用していました。
原爆により屋根は押しつぶされ内部も破壊、地下室以外は全焼。
しかし、爆心地から170mの距離でありながら爆心地側に開口部の
ほとんどない強固な建物だったため、基本的形態はとどめました。






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「平和の鐘」
世界をイメージしたドーム型の屋根の中に「世界は一つ」の文字と
国境の描かれていない世界地図が刻まれた鐘があります。
広島の悲願が、全ての核兵器と戦争のない、誠の平和共存の世界を達成
することを目指し、精神文化運動のシンボルとして造られたそうです。


時間の都合上、全ての慰霊碑を巡る事は叶いませんでした。

そして国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にも立寄り、遺影コーナー閲覧・・・
あれ?・・・どんなに検索しても名前が出て来ない;  受付の方にお伺いすると、
この施設の名簿と写真は、原爆死没者名簿とは異なり、寄贈された記録を展示のようです。
(原爆死没者名簿は広島市役所に問合せの上で直接出向き手続き後閲覧可能)

祖父の慰霊と被爆時体験談提出を兼ねてまた訪れたいと思います。
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原爆ドーム

広島県

【訪問日】2008年8月

平成8年(1996年)12月にユネスコの「世界遺産」に登録されました。
二度とこのような悲劇が起こらないための戒めと願いを込めて…


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真夏の日射しが照りつける中、
多くの人が国内外から訪れています。





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昭和20年(1945年)8月6日、史上はじめての原子爆弾によって破壊された
旧広島県産業奨励館の残骸である 爆弾はこの建物の直上約600メートルの空中で爆発した
その1個の爆弾によって20万をこえる人々の生命が失われ 半径約2キロメートルに及ぶ
市街地が廃墟と化した。この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため
国の内外の平和を願う多数の人々の寄付によって補強工事を施し これを永久に保存する
昭和42年(1971年)8月6日 広島市





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それは今日みたいな暑い朝だったと言われています…
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、原爆ドームの東150メートル、
上空約600メートルの地点で、テニアン島より飛来したB-29エノラ・ゲイ
により原子爆弾が投下され炸裂した。





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原爆炸裂後、建物は凄まじい熱線で包まれ、直後の爆風が襲いかかった。
1秒もかからないうちに崩壊。3階建ての本体部分はほぼ全壊したが、
中央のドーム部分は全壊を免れ外壁を中心に残った。





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説明看板の前には多くの人が立ち止まり読んでいます。





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相生橋は明治45年(1912年)電車専用橋として架けられ、
昭和7年(1932年)に自動車などとの共有橋となった。
T字型の特徴ある橋として、原爆投下の目印とされました。
現在は新しい相生橋のたもとに碑が建てられています。





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涼しくなった夕刻にも訪れてみました。
まだ多くの人が公園を散策しています。
すぐ隣の広島スタジアムからは大きな声援。





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すっかり日が暮れて相生橋から原爆ドームを眺めます。





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原爆ドームは一時取り壊される計画が持ち上がっていたが、
昭和35年(1960年)に被爆が原因と見られる急性白血病で
亡くなった1人の女子高校生の「あの痛々しい産業奨励館だけが、
いつまでもおそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」
と記した日記がきっかけで昭和41年(1966年)広島市議会は
永久保存することを決議した。翌年保存工事が完成。
定期的に補修工事が行われながら保存されています。

大刀洗平和記念館(旧)

福岡県

【探索日】2008年1月

甘木鉄道の旧太刀洗駅舎内にある大刀洗平和記念館。
ここは私設の記念館で、西日本における陸軍航空隊発祥の地、
日本陸軍が東洋一と誇った航空隊のあった大刀洗に、
駅舎を改装し昭和62年4月に開館しました。

展示品には世界に一機しか現存しない旧陸軍の九七式戦闘機や
この地で訓練をし、知覧などから特攻隊として旅立った隊員の遺影、
戦争当時の品々が旧駅舎内や地下通路跡に展示されています。


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田園風景の一角に建つ旧太刀洗駅舎。
こちらが大刀洗平和記念館です。





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旧海軍零式水上偵察機のフロート
福岡市が昭和62年10月に着工し平成2年にかけて行われた
大濠公園の浚渫工事中に発見され、記念館に寄贈されたものです。
この「フロート」は旧糸島水上飛行場にあったものを、
米軍兵士等が公園でボート代わりに使っていたものと思われます。





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向いにはT-33が展示されています。
この機はアメリカ軍初の複座ジェット練習機で、
数年前まで航空自衛隊の練習機として運用されていました。
玄関には模擬魚雷まで置いてあります・・・





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記念館内部は遺影や遺留品が多く展示されていました。
館長より当時や戦後の貴重なお話をお聞き出来ました。
特に旅立つ特攻隊員の話には涙ぐみました。
なお遺品が展示されているスペースは撮影禁止です。





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〜展示機の経緯〜
平成8年9月10日、博多湾雁の巣鼻から南東約600m、
水深3mの海底で発見、引き揚げられ、旧陸軍九七式戦闘機と
判明した。引揚げ後、操縦席内にあった箸箱の名前から
搭乗者は鳥取県出身の渡辺利廣陸軍少尉とわかった。
渡辺少尉は沖縄戦への特攻出撃を命じられ、旧満州公主嶺から
鹿児島県の知覧飛行場に向かう途中、雁の巣沖に不時着。
その後、渡辺少尉は別の九七式戦闘機により
知覧基地から沖縄に特攻出撃、戦死されました。

この機体発見後、九州各地の戦争資料を展示する施設から
引取りの希望があったが、かつて東洋一の飛行場があった
大刀洗飛行場ゆかりの地の一市ニ町で復元され、大刀洗平和
記念館で保存、展示されることになった。
大刀洗飛行場平和事業推進協議会
〜大刀洗平和記念館パンフレットより〜





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丈夫な固定脚は草原などの不整地でも離着陸が可能。
ノモンハン事件、日中戦争当時の空には九七式戦闘機に
叶う戦闘機は皆無でした。





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特徴的なアンテナとスコープ。





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シンプルな操縦席の機器類。大戦末期、操縦の簡単な
九七式戦闘機は、空戦経験のない飛行兵が操縦し
特攻作戦に出撃して行きました。但し老朽化のため
故障も多くこの機体もその中の一つだったようです。





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60年以上海中に没していた機体をここまで
修復した技術と情熱には頭の下がる思いです。





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中島製ハ-1乙エンジン
内部に固定された7.7mm機銃の銃口があります。視線上に
機銃があるため、安定した射撃で空の狙撃手と言われたそうです。





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貫通性が非常に高く優秀だった九七式戦闘機搭載爆弾(1/2模型)





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館内には渡辺少尉の遺族より寄贈された日記が展示されています。
不時着により今までの日記を失った渡辺少尉は知覧より出撃される
前夜まで過去の出来事を思い出し、改めて日記を綴ったそうです。

尊い犠牲の上に成り立った今の平和を
改めて考えさせてくれる記念館でした。

【大刀洗平和記念館】
〒838-0814 福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1
【開館時間】
午前9時 ~ 午後5時(入館は午後4時30分まで)
【休館日】
年末年始のみ (12月29日~1月3日)
【入館料】
大人(大学生以上) 500円(400円)
高校生 400円(300円)
小学生・中学生 300円(200円)
障がい者(大人)300円(300円)
※()は団体割引料金です。(15名以上からのご利用となります。)
※小学生未満は無料でご利用いただけます。
※介護者1名も障がい者割引適用。
※高校生以下の障がい者は無料。
※車イスを4台所有、多目的トイレも完備しております。
お気軽にご利用ください。

【電話】0946-23-1227
【FAX】0946-23-9009
【ホームページ】http://tachiarai-heiwa.jp
【e-mail】tachiarai-heiwa@jewel.ocn.ne.jp

八日市飛行場跡

滋賀県八日市市
【探索日】2005年2月

〜案内看板より〜
この掩体壕は昭和19年(1944年)米軍の日本本土空襲が
激しくなることが必至と見られるにいたり、軍部では飛行機
を空襲から守るために、各航空基地の周辺に急いで作らせた。
この掩体壕は小型機用で八日市市には現在、この他にもう一箇所
残っており、八日市飛行場の語り部として貴重な存在です。
八日市市


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名神高速道路沿いの細い道を走ると
竹薮の中に巨大な掩体壕が現れます。
ここに辿り着く前に迷った迷った…一時は
泣きながら再起を帰そうと思っていたほど;




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敷地の手前には案内看板がありました。

〜案内看板より〜
掩体壕は至近弾の破片は防ぎましたが、爆弾の直撃には
耐えられませんでした。一方、上空から隠蔽する目的も
あったので、壕の上部は土で覆い、草木が植えられてました。
応急の道路が作られましたが、地盤の軟弱な箇所では
タイヤがめり込んで大変でした。それで軟弱な所へは栗石を
大量に投入したり、丸太を敷き詰めて急場を凌ぎました。
また、警戒警報が発令されると、総出で飛行機を掩体壕まで
押していき、警報が解除されると再び飛行機を飛行場へ戻す
作業が毎日繰り返されたものでした。
現在、大阪の八尾飛行場の付近に、これとほぼ同規格の
掩体壕が残されています。八日市市




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中にお邪魔して側面から撮影…




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風化が進み近付くのも危険な状態。




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掩体壕の周りにあった防御壁です。




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雪を掻き分け後ろに廻り込みます。




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後方から見た掩体壕内部の様子ですが、土砂が
入れられています。外にはキャベツの腐乱屍体が大量に…




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最後に竹薮から撮影して終了。

「八日市飛行場略歴」
八日市飛行場は1915年(大正4年)民間飛行場として完成した。
しかし、まもなく陸軍に譲渡され、拡張工事が始り
約一六五万平方メートルの飛行場を建設、航空第三大隊が
1922年に開隊した。以後増強されたが、1944年明野飛行
学校分教場として使用された。
1990年代に八日市飛行場、八日市空襲、布引丘陵に残る
飛行機援護施設である掩体壕等の調査がおこなわれ、
2000年〜2001年にかけて掩体12基が確認された。
一号・ニ号掩体はコンクリート製で入口幅約24.5m、
最大幅約28.1m、奥行約22.5m、現況高約5.5m。
東側には修理工場として使用するための長方形の掩体もある。
その他の掩体は土製で広範囲に残されています。
布引丘陵は飛行機だけでなく、修理整備工場等の
疎開場所として本土決戦に向けた準備の様相を示している。
〜しらべる戦争遺跡の事典より抜粋〜

旧生駒トンネル

大阪府東大阪市
【探索日】2005年5月

 
工事中の落盤事故で多くの犠牲者を出した近鉄奈良線の生駒トンネル。
1914年(大正3年)に開通したが、1946年(昭和21年)トンネル内で車輛火災が発生。
煙りに巻かれるなどして23人が死亡。二年後の1948年(昭和39年)急行電車が
トンネル内を走行中、ブレーキホースが破損しエアーブレーキが全く効かなくなり、
下り坂を加速しながら暴走。河内花園駅で先行の普通列車に追突して49人が死亡した。
1964年(昭和39年)車輛の大型化に適応した新生駒トンネルが開通したことにより
生駒トンネルは閉鎖。同時に大阪側にあった孔舎衛坂駅(くさかざかえき)も閉鎖された。



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住宅地を抜けて山沿いにしばらく走ると
閉鎖されたトンネル口が見えて来ます。





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ホームのあった場所に石塔が建てられています。





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旧生駒トンネル口は厳重に閉鎖されていました。
奈良側のトンネルの一部が再利用されているためだそうです。





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監視カメラが配備されています。





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扉の隙間から中が見れますので覗いてみましょう。
二重の扉とセンサー、カメラ2台で厳重に監視されています。





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朽ち果てたホーム…暴走した列車を
なす術もなく見送ったのでしょう。





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孔舎衛坂駅の駅舎でしょうか?





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駅施設のコンクリート台座が寂し気です。





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ホーム奥に鳥居が立っています。





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不動妙王の像が睨みをきかせてますね。






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貫通石も置かれていました。
ちなみに両側から掘り進められたトンネルの
最後の岩の破片で、工事を成し遂げた記念です。
安産のお守りとしても重宝されているとか…





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こちらが事故で亡くなられた人達の供養の地蔵尊。
冥福をお祈りしてこの地を後にしました。

摩文仁平和祈念公園

〜沖縄、忘れられない、20世紀の爪あと〜
沖縄県糸満市
【探索日】2006年5月

軍民あわせて20余万にのぼる尊い人命を失った沖縄戦。
悲惨な戦争を二度と繰り返すまじ。沖縄県民のこの悲痛な願いを結集した
沖縄平和祈念堂は昭和53年10月1日に開堂しました。
〜案内パンフレットより抜粋〜



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摩文仁の丘にそびえたつ真っ白な祈念堂。
正七面体角錐型で堂字は、七つの海と合掌の形を表し、
人種や国家、思想や宗教のすべてを超越して、
世界に平和を訴える壮大なモニュメントです。



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右手には平和の鐘があります。
「戦いに散った魂を鎮め 人類の悠久平和を誓い
この平和の鐘は とはに絶えることなく 四方に響きわたる
ここ摩文仁の丘より 万人の祈りをこめて」
と銘文が刻まれています。



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振り返ると緑豊かに整備された公園が広がっています。



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祈念堂入口には国内最大の蝶オオマダラの金色の蛹が…
ギリシャ語で蝶のことをプシュケー(魂)と呼び、
戦没者を追悼し、平和祈念像の使者として
命の尊さを訪問者を優しく出迎えているそうです。



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祈念堂の内部には沖縄平和祈念像が鎮座されています。



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高さ12m、幅が8mの人間の祈りの姿を象徴した座像。
慰霊と平和の一点に力を合わせていこうという事を
10本の指を合わせた合掌の形に表現されています。



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平和祈念像の基底には、日本はもとより…



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世界各地から平和への祈りを込めて
寄せられた霊石が納められています。



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平和祈念堂を出た瞑想の森の中には、
少年の像が建てられていました。



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この近くのガジュマルの木の根元から少年の遺骨と
朽ちた軍靴、錆果てた手榴弾3発が発見されました。
沖縄戦で散った前途ある少年たちの死を
悼み慰めるために建立されました。



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坂を下って行くとシーサーが出迎えてます。



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沖縄県平和祈念資料館の入口に着きました。



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とても神聖な空間な感じがします。



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ここには静寂だけが存在します。



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時間の都合で資料館見学はできませんでした。
資料館の中には民衆の視点からの沖縄戦の記憶を中心に
常設されていて、当時の体験者の証言や写真、
遺品など約2100点が展示されています。



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資料館の前庭に錆びた物体が…



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旧日本海軍の酸素魚雷です。



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スクリュー部分は錆びてボロボロに。



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当時日本が誇る世界最新鋭の航跡を残さない魚雷も
長い年月で朽ち果てていきます。



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後方にも小型の魚雷が展示されていました。



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もう使われる事も動く事もありません。



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野戦砲の残骸も置かれています。



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米軍のキャタピラも日射しに晒されていました。



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ボンベのバルブも回らない。



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赤レンガが印象的な資料館をあとにします。



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そして広大な園内に立つ平和の礎。



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国籍、軍人、民間人を問わず沖縄戦で
戦没した方々の氏名が刻まれています。



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沖縄戦で米軍が初めに上陸した阿嘉島で採取された火と
広島市の「平和の火」、長崎の「誓いの火」を合わせた
平和の火が灯るオブジェ。プールには世界地図の中心部に
沖縄の位置に建てられています。



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多くの学生が訪れていました。



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沖縄戦跡国定公園の一番南にある断崖。
この美しい場所でも米軍に追われ逃げ場を失った
日本軍、住民、学徒、防衛隊らが身投げをし
多くが命を絶ちました。

恒久の平和を願います。

糸数アブチラガマ(糸数壕)

〜沖縄、忘れられない、20世紀の爪あと〜
沖縄県南城市
【探索日】2006年5月

ー平和の思いを新たにー
字糸数にある自然壕のこと。糸数壕ともいい、
大戦で住民避難、病院等に使用されました。
米軍の生き埋め攻撃などにより、多数の住民死者を
出しました。現在、平和学習の場として
多くの人たちが訪れています。
〜案内チケットより〜


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南部の激戦地に残された壕。整備され施設となった糸数壕には
日本各地から平和学習として多くの学生達が訪れている様です。
激しい雨の降る中、学生集団の合間に中に入る事にしました。
※暗闇学習(無灯火)時を邪魔しない事を条件に撮影の許可を得ました。



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冷たい空気が吹き出す壕の入り口から中に入ります。



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照明は無く文字通り漆黒の闇…



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入口の階段を降りた場所に兵器庫があります。
この先は崩落の危険があり立入禁止。



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ベッドが置かれていた場所。当時の備品がそのまま。



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この壕には600人以上の負傷兵で埋め尽されていたそうです。



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破傷風に感染した患者を隔離した場所。



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外光から閉ざされた壕内には滴る水の音だけがこだましています。



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脳に傷を負った患者を収納したようです。
広間では案内人がたくさんの学生達に当時の様子を語っていました。
学生達はただ黙って話に聞き入っています。



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便所の奥には死体安置所の看板。
当時の生き証人のお話を学生達の後ろで拝聴。
栄養失調などで泣き出す子供を、兵隊が口に手を当て窒息死させた…
苦しい状況の中、住人達は息を殺すしかなかったのです。
もぅこんな地獄は味わいたく無いと。



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近くには生活に必要な小さな井戸。



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カマドの跡です。



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ただしこれは軍関係者のみが使用していたようで、
地元民は出口近くに追いやられ多数が米軍の被害に遭いました。



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長細い糸数壕にたくさんの病棟。



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通路の下はすべて負傷兵が占拠していました。
その中で、南風原陸軍病院から移動して来た、ひめゆり学徒隊の数十人が
看護にあたっていた様です。



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糸数壕の出口付近。米軍の攻撃時に黄燐弾やガソリンを投げ込まれ
住民の中に多くの死傷者が出ました。



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すぐ近くに住民は押しやられていたのです。



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勝手に壕の外に出ない様、軍の監視所が設けられています。



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立てこもる兵士や住人に対し米軍は土砂で壕ごと生き埋めにしました。
終戦を向かえ、生き残った住人と負傷兵は米軍に収容された。



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私達は今、自由に表に出る事ができます。



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外の光がとても懐かし…



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哀しみに包まれた壕を後にします。
今の平和な時代を再認識させられた場所でした。

南風原文化センター

〜沖縄、忘れられない、20世紀の爪あと〜

沖縄県南風原町
【探索日】2006年5月

ー施設案内より〜
南部への避難コースとなった南風原(はえばる)は
住民の42%にあたる3345人の住民が犠牲となった。
町内の森林一帯には、陸軍病院壕が造られた。
文化センター内には当時の壕の様子を再現した
ジオラマや、掘り出された遺品などを歴史などと共に
展示されています。



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雨が降りしきる中、南風原文化センターに到着。
建物の横には供養塔が建っています。



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社会学習の子供達と一緒に見学。
みんな真剣にちゃんと展示物や年表を見ています。
こちらが壕のジオラマ入り口。



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向いには寄贈された米軍の高射機関砲の砲身。
近所の人が戦後回収して自宅の柱として
使っていたモノだそうです。



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当時の沖縄の空は夥しい数の高射機関砲の弾幕で、
日本の航空機は一切近付けませんでした。



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病院壕で発掘された遺留品。



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ジオラマの中に入って当時の
格好をした軍医に驚かされました。



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病院独特の臭いが充満。
発掘された医療器具が並べられています。



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数少ない医療用品を増え続ける負傷兵に
有効に使われたのでしょうか…



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証言によって描かれた壕内のイラスト。



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今回廻れなかった今の病院壕の様子。
どれも長い年月で崩れ、焦げ跡も生々しく残っています。



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発掘作業の様子の写真。数多くの遺骨も回収されました。



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眼鏡のフレームや櫛、煙管や万年筆も発掘、展示されています。



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砲弾や爆弾、砲撃された壁の写真も…



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天井から吊るされた着物には穴が開いています。
この着物は、妊娠した女性の腹に砲弾の破片が当たり、
愛児が盾になる形で女性の命は助かった…
恨みの弾痕、着物からは哀しい叫びが聞こえてきそうです。



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戦前、海外へ移民した人々の品も展示されています。



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日本軍が配付したこの軍票はただの紙切れとなった。



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出口に特別展示された品々。
熱によって蒸された毛布…



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顕微鏡です。



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地雷や手榴弾、銃の部品も残されていました。



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鉄兜の持ち主は生き残れたのでしょうか。



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文化センター2階にも壕で発掘されたモノが
ところ狭しと展示されていました。



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ツルハシやクワなども…



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汗や血が染み込んだスコップ。



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何に使われたであろうか沢山の瓶。
ここを訪れた人達は過去の悲惨な出来事の記憶を
決して忘れないでほしいものです。


ひめゆり学徒隊も配属された南風原病院壕。
当時は30以上もの壕が掘られ、最も大きい壕は
第20壕で、長さ50m・幅2m・高さ2mもあった。
今でもツルハシの跡や、炭化した抗木が残っています。
大戦の戦跡では全国で初めて、南風原町の文化財として
指定されました。

ひめゆりの塔

〜沖縄、忘れられない、20世紀の爪あと〜

沖縄県糸満市
【探索日】2006年5月

戦時中「沖縄師範学校女子部」と「県立第一高等女学校」で
看護要員として動員された女子学徒隊数219名。
ひめゆりとは両校の同窓会の名前です。
南風原陸軍病院に配属され、123名が犠牲となった。
この壕では46名の学徒、職員が一度に亡くなりました。



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沖縄南部戦跡めぐりで訪れたひめゆりの塔。
書籍などでここでの惨劇は知ってはいましたが、
いざこの地に降り立つと神妙な気持ちになります。
この日も学生達が大勢訪れていました。



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こちらがひめゆりの塔。



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地元住民により建立されました。



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この壕は沖縄陸軍病院第三外科壕でした。



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多くの負傷兵で埋め尽された壕内で女子学徒達は
献身的に医療に従事していましたが、
6月18日の解散命令後戦場に置き去りにされ、
残こされた負傷兵とともに米軍の毒ガス攻撃で
多くが命を落としました。



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壕へは急斜面を出入りするしかなかったようです。
今だに哀しみが伝わってくるかのような感じがしました。



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時間の都合上見学できなかったひめゆり平和祈念資料館。
館内には職員、女子学徒の写真や生き残った方達の証言、
遺留品が展示されています。



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生存者の有志が建立した石碑。



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他にも石碑や彫像が建てられています。



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沖縄戦殉職医療人之碑。



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顕彰碑です。



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女子学徒の石像。この平和の世の中を
じっと見つめているかのように佇んでいらっしゃいました。

旧海軍司令部壕

〜沖縄、忘れられない、20世紀の爪あと〜

沖縄県豊見城市
【探索日】2006年5月
 
昭和19年(1944年)日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた
司令部壕で当時は450mあったと言われています。カマボコ型に掘り
抜いた横穴をコンクリートと抗木で固め、米軍の艦方射撃に耐え
持久戦を続けるための地下陣営で、4000人の兵士が収容されていました。
戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、
昭和45年(1970年)3月観光事業団によって司令部室を中心に
300mが復元されました。
〜案内パンフレットより〜



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小高い丘の上に「海軍戦歿者慰霊之塔」が建っています。
その横に壕への入り口がありそちらに向かいます。



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資料館が併設されていて中には
壕から発見された遺品が展示されています。



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食器類の間に手榴弾…



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壕の建設に使われたツルハシ、スコップなどもあります。
地域の住民も召集され手作業での工事だったそうです。



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参観料(大人420円)を払い地下へ下りて行きます。
入り口には全国から贈られた千羽鶴。



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長い長い通路。中は蒸し暑い…



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入り口が遥か上部に見えます。



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最下層に着きました。今は観光用に照明がありますが、
戦中は僅かな光しかなかったでしょう。



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沖縄の多湿な気候による壁のカビなどを防ぐため
部屋は漆喰で固められました。



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戦中は陸上で戦死した人々の血が、雨水と共に壕中に流れ込み
幾重もの血と泥の層が出来たそうです。



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当時の模様のイラストがあちらこちらに展示されています。



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配電用碍子。



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漆喰の壁に無数の穴が開いています。



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幕僚達が手榴弾で自決した痕です。
本来なら米軍と降伏交渉をして沖縄戦を終了させる役を担う
司令部の人間は、無責任にも交渉をせずに自決し、
残された兵士や住民は長く米軍の攻撃にさらされました。
さらに敗走した日本兵による住民虐殺事件も頻発。



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通路が負傷兵で埋められていた様子です。



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医療室と言われている場所。生存者の証言では
この部屋を中心に負傷兵が並べられていたそうです。



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収容し切れない患者は先程の絵のように通路に…



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発電機台跡。燃料はすぐに尽きたはず。
充分に稼動したのかは不明です。



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手掘りの跡が生々しく残る通路。



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下士官室です。



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パイプは簡易式のベッド…



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こちらにもツルハシが展示されていました。



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細い通路が網の目のように張り巡らされています。



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このドアから最期の突撃が行われたようです。
すでに弾薬は尽き、手には鉄の破片を持ちながら…



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司令官室です。



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当時の模様を再現した室内。



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このように会議が行われていたのでしょう。



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米軍上陸図です。米軍は中部から上陸し、
司令部のある南部へ侵攻していきました。



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やはり飛行場を制圧拠点としていたようです。



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当時の写真が展示されています。



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心が痛くなる写真ばかり。



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チューインガムを噛みながらピクニック気分で
米軍は上陸して来たとの生存者の証言も…



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今は静まり返った壕内。



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後世のためにもこの負の遺産は残してもらいたいです。



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哀しみに包まれた壕を後にします。



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太陽の光が降り注ぐ地上に出ます。この地で行われた
悲劇を忘れさせる南国の風景。

沖縄では、松本大本営の建設完成までの時間、米軍の
本土上陸を遅らせるための陽動作戦地として、
飛行場を造り沖縄に目を向けさせたと言われています。
国の勝手な思惑で沖縄島民、兵士は犠牲となりました。
プロフィール

屋敷サカヱ

Author:屋敷サカヱ
「NeoNATS」へようこそ!
‘過去’に探索・サイト公開した物件を公開してます。
5月から月2回の不定期更新になります。
よろしくお願いします(*´∇`)ノ

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