年末のご挨拶

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今年一年NeoNATSをご覧いただき誠にありがとうございました。
良い年末年始をお過ごしください。
また来年もどうぞよろしくお願いいたします。


管理人:屋敷サカヱ

江北橋

レポ提供:ヴラド魔王様

東京都足立区江北


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足立区に在ります「江北橋」です。
別名「お化け橋」とも言われてます。




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江北橋の東京側の入口。




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江北橋は事故が多い橋でも有名で、
常に車が往来が激しい橋です。
噂では以下の噂が…

1.川の方から太鼓囃子が聞こえてきて
その音色に誘われて事故を起こす。

2.橋の途中で急に体がだるく成り、ハンドルを握る手が重たく
成ったかと思うと、青白い顔した女性が運転席の
横の窓からジーッと見ていた。

3.真直ぐな道の筈なのに橋の中央から道が現れる。

4.幽霊老人と幽霊犬が歩道を散歩する。
等の噂が存在します。




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橋を渡り足立区側に到着しました。
不思議なモニュメントが在りました。
此れは「流れ」




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もう一つ在りました。「水」です。
どういった意味なのでしょうか?




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江北橋の周辺を回りましたが…供養塔や慰霊碑、
御地蔵様等は在りません。
橋の下は散歩道と野球場とサイクリング道が在ります。




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帰る途中で発見しました。最近の事故でしょうか?
此処だけガードレールが破損してました。
また、この道の出口は強制的に左右に曲がれされます。
直進出来る道は今工事中ですから…スピードを出し過ぎますと
事故を起こし易い造りになってます。
(信号は在ります。両岸の出入口に)




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江北橋周辺にはもう一つ悲しい伝説が在ります。
鎌倉時代に足立区の在る一体を支配していた
足立氏が対岸(北区)の豊島氏の豊島左衛門との
縁談の話出来、豊島氏へ嫁入りしました。
夫婦は幸せな生活を送ってましたが…
夫の姑に苛めに苦しめられました。
嫁の足立姫は苛めに耐え切れず江北橋付近の隅田川に身を投げた。
しかも姫を慕う待女5人(12人という説も有る)入水したとされてます。
現在足立姫と侍女の供養碑は性翁寺に在ります。
橋に出る幽霊は入水自殺した足立姫と侍女なのかもしれません。

以上江北橋レポートでした。

四面塔

レポ提供:ヴラド魔王様

東京都豊島区池袋

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池袋の四面塔に行くには池袋駅東口から行きます。
東口に出ましたら左に曲がり線路沿いを目指します。
場所はゲームセンターの隣りに在ります。




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四面塔を示す石碑です。




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これが四面塔です。




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〜案内看板より〜
「四面塔尊の由来」
今から約二百八十年前の享保の頃(徳川幕府八代将軍吉宗の頃)
高田雑司ケ谷と板橋を結ぶ街道と礫川と東長崎を結ぶ街道付近
(現在の西武線池袋駅東口)は、夕方になると追いはぎや辻斬が
出没し、夜はその難を逃れる為、通行する人が途絶えました。
享保六年の夏、一晩で一七名の辻斬残骸があり、この不祥事を
憂いて、池袋村民有志六十四人が雑司ケ谷鬼子女神威光山法明寺
第二十二世日相上人に供養をお願いし、享保六年九月、法華経の
お題目を刻した石塔を建立して無縁仏の霊を供養しました。
正面にはお題目、右側面には北方板ばしみち、左側面には、
南方高田雑司ケ谷道が記され、道標としても使われました。
この塔は四面塔尊と称され、以来、法華経の功徳により
災難は解消されました。平成十二年九月吉日
池袋四面塔尊奉賛会




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お地蔵様です。




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四面塔は3つの顔を持ってます。
1.供養塔
2.祟り塔
3.三宮魔方陣

明治時代になり池袋周辺は近代化の開発の波が襲いました。
東武鉄道と西武鉄道の開業により四面塔が在った場所は
区画整理を受けて塔は駅前に強制移動されました。
移動に関った作業員が相次いで事故死したため、
毎年四面塔を秦じる祭が在りましたが、しかし太平洋戦争の
勃発により祭は中断し周辺は空襲や戦後混乱で荒廃して行きました。
戦後混乱も終息し再び駅周辺は開発が始まりました。
1955年(昭和30年)駅前に丸物デパートの建設により、
駅前から現在の土地にまた強制移動されました。
しかし丸物デパートの建設中事故が頻発した為、
デパート関係者は地元の有志と協力して四面塔を新装し、
祟りの終息を祈願しました。時に1955年(昭和30年)5月。    
しかしその後、デパートは完成したものの丸物デパートは
潰れました。人々は噂しました…「塔を動かしたから」と

池袋周辺には3つの神社が在ります。
1…豊島区上池袋2丁目子安稲荷神社
2…豊島区南池袋3丁目威光稲荷神社
3…豊島区南池袋3丁目三社神社
1〜3の神社を全て結ぶと三社宮の結界陰陽道が出来ます。
平たく謂えば「魔方陣」です。
その三社宮の中心付近に在るのが四面塔。

以上池袋・四面塔レポートでした。

八幡の藪知らず(不知八幡森)

レポ提供:ヴラド魔王様

千葉県市川市

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総武線の秋葉原駅から約20分程で本八幡駅に
到着しました。駅前は賑やかでした。




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徒歩で歩く事5分国道14号線に出まして、
市川区役所の在る方向に歩きますと歩道橋が見えます。
この歩道橋から「八幡の藪知らず」を撮影しました。




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藪の隣は市営の駐輪場でしたので・・・
柵越しに藪を撮影しました。本当に雑木林ですが…




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此れは藪の唯一の入口です。小さな社が在りました。




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石柵越しぎりぎりで中を撮影。やけに竹林が多いですねぇ。
有名霊能者の寺尾玲子氏が霊視したところ・・・
僅かに「異界に通じる入口」の名残が在るそうですよぉ。
100〜200年前なら怪現象が起こりえた場所だと。
しかし周りの人が住みはじめ次第に神秘力が
衰えていったそうです。(朝日ソノラマ・闇の検証より)




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社の脇には石碑類が置かれてました。




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人家と藪の境目に市川市が設置した「解説文」です。

案内看板より
∽∽∽∽∽∽不知八幡森(通称:八幡の藪知らず)∽∽∽∽∽∽
江戸時代に書かれた地書や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。
そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」とか、
「藪の間口漸く十間(約18メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして
竹・漆の樹・松・杉・柏・桑の樹などさまざまな雑樹生じ…」などと書かれたりしていますが、
一様にこの藪知らずには入ってはならない所、一度入ったら出てこれない所、入れば必ず祟りが
あると恐れられた所として記載され「諸国に聞こえた名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。
入ってはいけない理由については、●最初に八幡宮を勧請した旧地である。●日本武尊が陣所とされた跡である。
●責人の古墳の跡である。●平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、
この地に入ると必ず祟りがある。●平将門の家臣六人がこの地で泥人形になった…
と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(一六五八〜六一年)、水戸黄門(徳川光國)が藪に入り
神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、
取り沙汰されてきたものではないでしょうか。また理由のひとつとして「藪知らず」が「放生池」の跡地で
あったからではないかとも考えられます。古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、
放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。
藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が
途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、
以上のような話が作られていったものと思われます。
「不知八幡森」の碑は安政四年(1857年)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。
∽∽∽∽∽∽市川市教育委員会∽∽∽∽∽∽




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あの水戸黄門様も来た様で・・・・・




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国道の対岸から藪を撮影。
この国道はかなり交通量が多く常に車が走ってます。




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近くには京成電鉄の路線も走っており、
遮断機待ち渋滞も起きるほどです。
以上「八幡の藪知らず」レポートでした。

茂原市掩体壕

千葉県茂原市
【探索日】2004年7月

ご案内:『噂の現場』sudoh様

航空機を滑走路から誘導路を走らせてきて
壕に納め敵機からの攻撃に備えた壕です。
茂原市内には今も多くの掩体壕が残されています。


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戦争遺跡の資料から茂原市内には数個の掩体壕が
残されているとあったので、立寄って頂くことにしました。
市内を走り回り諦めかけた頃、畑の中に掩体壕を見つけました。




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扉が付けられている所から倉庫として使われているのでしょう。




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畑の畔を慎重に歩いて掩体壕へ近付きます。
大きさからすると戦闘機用のモノと思われます。




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中を拝見…案の定物置きでした。




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分厚いコンクリート製なので取り壊されずに
今も残っていたのでしょうね…




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他の掩体壕を探して、さらに走ると
先程とは大きさが違う壕を発見しました。




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こちらは爆撃機用と思われ、かなりの大きさです。




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案内看板がありました。

掩体壕(えんたいごう)
昭和十六年(1941年)太平洋戦争が始まる直前の
9月に木崎、谷本、町保、新小、本小内の約150戸と
東郷小学校及び寺社等が強制移転を命じられ、
茂原海軍航空基地(戦略上は海軍二五二航空隊)の
建設が始まった。基地本部跡はいまの萩原小学校、
兵舎跡は茂原中学校であり、三井東圧化学(株)
東側の約1,000m道路は当時の滑走路跡で、
基地の東端はいま東郷保育所の前の通称海軍道路
と呼ばれている辺りである。
この掩体壕は航空機を滑走路から誘導路を走らせてきて
壕に納め、敵機からの攻撃に備えた壕である。
二十数基築造された中では最大の規模で総面積三六五平方メートル
壕の中の面積二八六平方メートル、高さは最大が六m七十cmある。
戦時中で基地造成の人手が不足していたため、当時の
長生中学校や茂原農学校の生徒、周辺の人達等動員して急いで造った。
築造方法は、土砂を壕の形に盛って転圧して筵や
板を並べ、その上に金網や鉄筋を張ってセメントを流した。
その厚さは30〜50cmと均等ではないようである。
また計算通りのセメントが間に合わず後から付け足したのも
観察できる。50余年経った今日、茂原海軍航空基地を
語る数少ない遺跡である。
平成七年八月十五日 茂原市教育委員会




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他にも当時の様子を再現した模型の写真が置かれています。




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中を見てみる事にします。危険に付き立入禁止です;




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厚さは先程のモノと変わらないのですが規模が大きい。




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表面のアップ、砂利が浮き出しています。
当時セメント不足で、砂利の割り合いが多いみたいです。




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一部が剥がれ落ちていて鉄筋がむき出しになっていました。




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中から外を撮影…立入禁止です;




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向いの広場にも先程と同じ戦闘機用の掩体壕がありました。




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こちらは少し厚みがないような…




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中の様子です…ゴミが捨てられていました。




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鉄材も置かれています。




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後方よりの風景。
他にまだあるそうですが、時間の関係で
3つ見つけたのみで終了。
戦争という過去の負の遺産として、
残しておいて頂きたいものです。
プロフィール

屋敷サカヱ

Author:屋敷サカヱ
「NeoNATS」へようこそ!
‘過去’に探索・サイト公開した物件を公開してます。
5月から月2回の不定期更新になります。
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