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広島平和記念公園

広島県

【探索日】2008年8月

1949年(昭和24年)8月6日の「広島平和記念公園都市建設法」の制定にともない、
この区画を平和記念施設として整備し、1954年(昭和29年)4月1日に完成しました。


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「動員学徒慰霊塔」
戦時中、労働力の不足を補うために立法された国家総動員法により
従事させられた学生達。軍事工場や建物疎開作業などで労働に従事して
被爆した6,000人以上の学生達を慰霊する塔です。塔の周りのレリーフ
には学生達が従事していた仕事の様子が彫られています。





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5層になった高さ12mの有田焼の陶板の中心には平和の女神像。
八羽のハトがとまり、中心柱には慰霊の灯明がついています。





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「元安橋の親柱」
被爆したのは1926年(大正15年)に掛けられた橋。原爆には耐えた橋桁は、
衝撃により親柱の笠石が左右にズレました。その状況から爆心地は元安橋の
延長線上であったと推定されました。

この橋の先祖は、毛利輝元が広島城を築城した時に架けた橋で、
輝元の祖父毛利元就の子の元康(もとやす)が架け渡したことから
その名が付けられたと伝えられているそうです。





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「原爆犠牲ヒロシマの碑」
犠牲者を偲ぶブロンズ像。花崗岩の台座には熱線により泡立ち火膨れした原爆瓦。
全国からの募金により建てられた平和への決意を固めるための記念碑です。





PeaceMPark_05.jpg
「広島市立高女原爆慰霊碑」
平和大橋を渡ると折鶴と、モンペ姿の女学生のレリーフの慰霊碑がありました。
広島市立高等女学校(広島市立高女)は建物疎開作業に従事していた生徒541人、
職員10人の全員が亡くなり、他の動員先の生徒・職員も合わ676人が被爆死しました。
広島市立高女は市内の学校で最も多くの犠牲者を出しています。





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「平和の門」
平和大通りにあるフランスの芸術家が制作・寄贈しました。
平和記念資料館の柱と平行に立ち並んでいる鉄骨の枠組みは、
強化ガラスで覆われていて、門と足元の敷石に18種類の文字と
49の言語で「平和」の文字が刻まれているそうです。





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「広島平和記念資料館」
中央が本館、左に広島国際会議場、右に広島平和記念資料館東館。





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「嵐の中の母子像」
広島平和記念資料館の前に建立された「嵐の中の母子像」。
右手で乳飲み子を抱え、左手で幼児を背負おうとしながら、前かがみ姿勢で
生き抜こうとする母の姿を表しています。
核兵器廃絶への限りない努力を呼びかけるために建てられた像です。

広島平和記念資料館の中を拝見しました。被爆した実物が
悲惨な状況を何年経っても訴え続けています。





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「被爆したアオギリ」
爆心地から約1.3km離れた広島逓信局の庁舎の中庭で被爆したアオギリ。
熱線と爆風をまともに受け、枝葉はすべてなくなり、幹は爆心側の半分が焼けました。
枯れ木同然だったこの木は、翌年の春になり芽吹き、被爆と敗戦の混乱の中で
人々に生きる勇気を与えました。1973年(昭和48年)5月、この地へ移植されました。





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「被爆アオギリ二世」
移植され被爆アオギリは毎年種をつけ、これらの種は国内外へ
贈られ多くの二世が各地で元気に育っているそうです。





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「原爆死没者慰霊碑」
広島平和都市記念碑1952年(昭和27年)8月6日に建立されました。
碑文には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文字。
中央の石室には、国内外を問わず原爆に被爆し亡くなられた方の、
名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。





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「平和の灯」
1964年(昭和39年)8月1日点火された平和の灯は「核兵器が地球上から
姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴。 台座は、手首を
合わせ手のひらを大空にひろげた形を表現しているそうです。





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「平和の泉」
ライオンの口から水が滴っています。死の間際、水を求めた原爆犠牲者の思いを
いつまでも伝え続け訪れた人の渇きを癒し、平和の尊さを訴えるために建立されました。





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「原爆の子の像」
明るい未来と希望を象徴する少年少女の像が左右に立ち、三脚のドーム型の台座の頂上には
金色の折鶴を捧げ持つ、平和な未来への夢を託して立つ少女のブロンズ像。碑文には
「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれています。

原爆で亡くなったすべての子どもたちのための慰霊碑。建立のきっかけとなったのは、
2歳の時に被爆した佐々木禎子さんの死。10年後小学校6年生の時に突然白血病と診断され、
8か月間の闘病生活の後、1955年(昭和30年)10月25日に短い生涯を終えました。
佐々木禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで
1,300羽以上の鶴を折り続けました。病気を乗りこえ、懸命に生きようとした話は、
ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれています。





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「旧大正屋呉服店・旧燃料会館」(現レストハウス)
1943年(昭和18年)12月、繊維統制令により閉鎖され呉服店。
被爆当時、広島県燃料配給統制組合が建物を使用していました。
原爆により屋根は押しつぶされ内部も破壊、地下室以外は全焼。
しかし、爆心地から170mの距離でありながら爆心地側に開口部の
ほとんどない強固な建物だったため、基本的形態はとどめました。






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「平和の鐘」
世界をイメージしたドーム型の屋根の中に「世界は一つ」の文字と
国境の描かれていない世界地図が刻まれた鐘があります。
広島の悲願が、全ての核兵器と戦争のない、誠の平和共存の世界を達成
することを目指し、精神文化運動のシンボルとして造られたそうです。


時間の都合上、全ての慰霊碑を巡る事は叶いませんでした。

そして国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にも立寄り、遺影コーナー閲覧・・・
あれ?・・・どんなに検索しても名前が出て来ない;  受付の方にお伺いすると、
この施設の名簿と写真は、原爆死没者名簿とは異なり、寄贈された記録を展示のようです。
(原爆死没者名簿は広島市役所に問合せの上で直接出向き手続き後閲覧可能)

祖父の慰霊と被爆時体験談提出を兼ねてまた訪れたいと思います。

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屋敷サカヱ

Author:屋敷サカヱ
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