弘法寺の涙石
レポ提供:ヴラド魔王様
千葉県市川市
今回は弘法寺の涙石を訪れます。
しかし中央線沿いには伝承・心霊スポットが多いですねー^^;

秋葉原駅から総武線に乗り市川駅で下車します。

そのまま北に向かって歩いて行きました。
最近駅前は開発が進みかなり変わって来ました。

そのまま北に進みますと、手児奈通りへと繋がります。
その名に在る様に此処には「絶世の美女」が居た!
という伝承があります。手児奈とは歌人である山部赤人や
高橋虫麻呂が万葉集でも歌った絶世の美女の事です。
(小野小町より美人だったのかな・・・・??)

閑静な住宅地を進むと前方に巨大な山が見えて来ます。
ここに涙石がある弘法寺があります。
その山の麓にあるのが手児奈聖堂です。

参道を進みます。

万葉集で歌われた「絶世の美女」手児奈様に対する、
熱い男漢達の歌の解説です。いつの時代の男性はね・・・・

手児奈聖堂の横には池があります。この池にも悲しい伝説が…
昭和の時代に此処で事件がありました。
(凄い美女?)だった女性が沢山の男性から告白され
色恋沙汰で深く悩んでとうとう最悪の決断をしました・・・
そぅ「入水自殺」です。これと同じような事件が遥か
昔、奈良時代にもありました。それが「手児奈様」です。
美貌を聞きつけた熱い男達が大挙して訪れ「求婚」しました。
しかし求婚を求めた男性達が争いを始め、争う男性達の姿を見て、
手児奈様は嘆き悲しみました。その後手児奈様は(当時の市川市は海が近かった)
なんと海に入水自殺してしまったのでした。
さぞかし男性達は悔やんだでしょうね・・・・
その後、近所の弘法寺の住職様である日与上人様が手児奈様の霊を
慰める為に聖堂を建立しました。

参道を進みますと聖堂に到着します。今でも此処には「恋に悩む女性」や
「安産」願う女性の方が沢山訪れてます。

さてぇ手児奈聖堂を後にしまして、次は弘法寺を訪問します。
直ぐ近くにあります。山の上に御寺がありますので急峻な石段を登ります。

徳川幕府との関係がある御寺ですのでとても大きい御寺です。

境内に行くまでにはこの石段を登って行かなければなりません。
その石段に御目当の「涙石」があります。

石段の中間地点に不思議な石があります。其れが「涙石」です。
周りの石は乾いて「白い色」してますがこの石だけは「濡れて、黒く」なってます。
この石にはとある悲しい伝承が・・・
遥か江戸時代の事、江戸幕府開祖の天下人徳川家康公を祀る日光東照宮の
建設が始まった頃の事です。運搬していた石が何故か「動かなくなる」事件が
発生しました。その石は元は弘法寺にあった石でありました。この石の運搬の
責任者が鈴木修理長頼という武士でした。その後の幕府の調査で無断で弘法寺の
石を使った事が露呈し、長頼は「切腹」の命を受けました。長頼はこの石の上で
「涙を流しながら」割腹し果てました・・・・長頼が流した涙と血が染込んだ石は
今日なっても常に「湿っている」と伝承されてます。

涙石の横から撮影しました。周りの石は乾いてるのが分かりますね。

背後から

後方から

拡大して撮影してみました。
んー地下水が染み出ている感じは無いようです・・・触る勇気はありませんでした。
触ってみたい方は「どうぞ」・・・その後命の保障はありませんが・・・・・・・・

涙石のある石段を登り切りますと山門が見えて来ます。
この山門は文化財に指定さてます。よく見ましょう。

山門を抜けますと右手に大きな桜の大木があります。樹齢はなんと400年!

名前は「伏姫桜」と云います。おや此処にも女性の名前が・・・
手児奈様との関係はあるのでしょうか?

伏姫桜の後方には本堂がありますが・・・弘法寺の山門と鐘楼以外は
明治大火と、太平洋戦争による戦火で大半の建物が焼け落ちてます。
今ある建物群は昭和・平成に建設されたものが多く占めてます。

鐘楼をスケッチしている人たちです。

境内の撮影を終えまして市川駅を目指します。
以上で手児奈聖堂・弘法寺の涙石レポートでした。^-^
千葉県市川市
今回は弘法寺の涙石を訪れます。
しかし中央線沿いには伝承・心霊スポットが多いですねー^^;

秋葉原駅から総武線に乗り市川駅で下車します。

そのまま北に向かって歩いて行きました。
最近駅前は開発が進みかなり変わって来ました。

そのまま北に進みますと、手児奈通りへと繋がります。
その名に在る様に此処には「絶世の美女」が居た!
という伝承があります。手児奈とは歌人である山部赤人や
高橋虫麻呂が万葉集でも歌った絶世の美女の事です。
(小野小町より美人だったのかな・・・・??)

閑静な住宅地を進むと前方に巨大な山が見えて来ます。
ここに涙石がある弘法寺があります。
その山の麓にあるのが手児奈聖堂です。

参道を進みます。

万葉集で歌われた「絶世の美女」手児奈様に対する、
熱い男漢達の歌の解説です。いつの時代の男性はね・・・・

手児奈聖堂の横には池があります。この池にも悲しい伝説が…
昭和の時代に此処で事件がありました。
(凄い美女?)だった女性が沢山の男性から告白され
色恋沙汰で深く悩んでとうとう最悪の決断をしました・・・
そぅ「入水自殺」です。これと同じような事件が遥か
昔、奈良時代にもありました。それが「手児奈様」です。
美貌を聞きつけた熱い男達が大挙して訪れ「求婚」しました。
しかし求婚を求めた男性達が争いを始め、争う男性達の姿を見て、
手児奈様は嘆き悲しみました。その後手児奈様は(当時の市川市は海が近かった)
なんと海に入水自殺してしまったのでした。
さぞかし男性達は悔やんだでしょうね・・・・
その後、近所の弘法寺の住職様である日与上人様が手児奈様の霊を
慰める為に聖堂を建立しました。

参道を進みますと聖堂に到着します。今でも此処には「恋に悩む女性」や
「安産」願う女性の方が沢山訪れてます。

さてぇ手児奈聖堂を後にしまして、次は弘法寺を訪問します。
直ぐ近くにあります。山の上に御寺がありますので急峻な石段を登ります。

徳川幕府との関係がある御寺ですのでとても大きい御寺です。

境内に行くまでにはこの石段を登って行かなければなりません。
その石段に御目当の「涙石」があります。

石段の中間地点に不思議な石があります。其れが「涙石」です。
周りの石は乾いて「白い色」してますがこの石だけは「濡れて、黒く」なってます。
この石にはとある悲しい伝承が・・・
遥か江戸時代の事、江戸幕府開祖の天下人徳川家康公を祀る日光東照宮の
建設が始まった頃の事です。運搬していた石が何故か「動かなくなる」事件が
発生しました。その石は元は弘法寺にあった石でありました。この石の運搬の
責任者が鈴木修理長頼という武士でした。その後の幕府の調査で無断で弘法寺の
石を使った事が露呈し、長頼は「切腹」の命を受けました。長頼はこの石の上で
「涙を流しながら」割腹し果てました・・・・長頼が流した涙と血が染込んだ石は
今日なっても常に「湿っている」と伝承されてます。

涙石の横から撮影しました。周りの石は乾いてるのが分かりますね。

背後から

後方から

拡大して撮影してみました。
んー地下水が染み出ている感じは無いようです・・・触る勇気はありませんでした。
触ってみたい方は「どうぞ」・・・その後命の保障はありませんが・・・・・・・・

涙石のある石段を登り切りますと山門が見えて来ます。
この山門は文化財に指定さてます。よく見ましょう。

山門を抜けますと右手に大きな桜の大木があります。樹齢はなんと400年!

名前は「伏姫桜」と云います。おや此処にも女性の名前が・・・
手児奈様との関係はあるのでしょうか?

伏姫桜の後方には本堂がありますが・・・弘法寺の山門と鐘楼以外は
明治大火と、太平洋戦争による戦火で大半の建物が焼け落ちてます。
今ある建物群は昭和・平成に建設されたものが多く占めてます。

鐘楼をスケッチしている人たちです。

境内の撮影を終えまして市川駅を目指します。
以上で手児奈聖堂・弘法寺の涙石レポートでした。^-^
この記事へのコメント
承認待ちコメント - - 2018年12月04日 15:10:10